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=== 1 · 重なる帳簿 ===
昼休みの少し前、黒瀬は自分のデスクでコーヒーを飲みながら、さりげなく増田の席に近づいた。
「なあ、増田。ダイトウ物産の支払いって、最近単価変わったりしてないか」
 できるだけ何気ない調子を心がけた。深刻に聞こえないように、隣の伝票を確認するついでのような顔をして。
「ダイトウ? ああ、あそこな……」増田はモニターから顔も上げずに答えた。「知らねえけど、たまに単価変わるって話は聞いたことあるかも。原材料の値上がりとかで、そういうのはよくあるだろ」
「値上がり、か」
「なんだよ、急に。またお前の悪い癖か? 細かいこと気にしすぎなんだよ、黒瀬は」
 増田は椅子を回してこちらを向き、笑いながら軽く肩をすくめた。悪意のない、いつもの調子だった。
「いや、大した話じゃない。引き継ぎで気になっただけだ」
「ならいいけど。まあ、榊原さんが見てる案件なら大丈夫だろ。あの人、そういうとこ厳しいし」
 増田はそう言うと、また自分の作業に戻っていった。黒瀬は小さく頷いて自席に戻る。榊原さんが見てる案件なら大丈夫――その言葉が、思っていたより重く胸の内側に沈んだ。信頼というのは、こうして誰の疑いも通さない壁になることもあるのだと、初めて気づかされたような気がした。
           
 午後、資料室から戻る途中、榊原に呼び止められた。
「黒瀬くん、例の件どうだ。進んでるか」
「はい。ダイトウ物産の分は、昨夜のうちに半年分の集計をまとめ終えました。今は念のため、他の取引先の分も確認しているところです」
 半年分の総額が、自分の月収の何十倍にもなること。承認欄に並んでいたのが、いつも同じ名前だったこと。そのどちらも、黒瀬は口にしなかった。話すべきかもしれない、と頭では分かっている。だが「その先」を言葉にするには、まだ何かが足りない気がした。足りないのが証拠なのか、それとも覚悟なのか、自分でもよく分からなかった。
「まとめ終えた、か」榊原は書類を小脇に挟んだまま、いつもの穏やかな表情を崩さなかった。「仕事が早いな。……で、何か気になるところでもあったか」
「少し……単価のばらつきが気になっていて」
「ばらつきね。まあ、仕入れ先とのやり取りなんてそんなもんだよ。相手にも都合があるからな。あまり深追いしすぎると、逆に相手先との関係がぎくしゃくすることもある」
「そう……なんですね」
「君は真面目だから、こういう細かいところで引っかかりやすい。でもね、大人の判断としては、全体が回っていればそれでいいんだ。数字の一つ一つに理由をつけようとすると、仕事はいつまでも終わらないぞ」
 榊原はそう言って、軽く黒瀬の肩を叩き、フロアの奥へ歩いていった。その背中を見送りながら、黒瀬はどこか釈然としないものを感じていた。榊原の言葉はいつも筋が通っている。反論の隙がない。だからこそ、そこに引っかかる自分のほうがおかしいのではないかとさえ思えてくる。
 だが――と、黒瀬は思う。数字は嘘をつかない。理由をつけて済ませられるものと、済ませてはいけないものがある。それを見分けるのが、自分の仕事のはずだった。
           
 夕方、フロアの奥でコピー機が紙詰まりを起こし、先輩の浜田が悪態をつきながら中を覗き込んでいた。
「くそ、また詰まってんのか……あ、そうだ黒瀬、お前どこか他の取引先も見てるんだっけ」
「え? ああ、まあ、少し」
「そういや東雲商会の伝票、先月あたりから様式が変わっただろ。営業の誰かが、単価もちょっと上がったってぼやいてたな。詳しいことは知らねえけど」
 浜田はそれだけ言うと、詰まった紙を乱暴に引っ張り出し、何事もなかったように自分の席へ戻っていった。黒瀬はコピー機の前に立ったまま、しばらく動けなかった。東雲商会――ダイトウ物産とは別の取引先の名だった。世間話のついでのような一言だったが、黒瀬の中では小さな棘のように残った。
 総務の桐生は明日の会議資料を束ねており、営業事務の戸田は電話口で頭を下げ続けている。いつもと変わらない、平穏なオフィスの光景だった。その平穏さの中で、たった今聞いた社名だけが、黒瀬の頭の中で妙に大きく響いていた。
           
「黒瀬さん、お疲れですか」
 夕方、皆川がそっと湯呑みを机に置いた。
「ああ、悪いな。ありがとう」
「最近、何か根を詰めてるみたいで……あの、無理しないでくださいね」
 皆川は言いながら、ちらりと机の上のクリアファイルに目をやった。中身までは見ていないはずだったが、黒瀬は反射的にファイルの向きを変えた。
「大した話じゃないよ。ちょっと数字が合わないところがあって、性分で放っておけないだけだ」
「黒瀬さんらしいです」皆川は小さく笑ってから、ふと口ごもった。「あの、黒瀬さん」
「ん?」
「……いえ」皆川は視線を伏せ、少しの間、湯呑みの縁を指でなぞった。「……何でもないです。その、私も、もし何か手伝えることがあれば、言ってください。頼りないかもしれないですけど」
「気持ちだけもらっとく」
 黒瀬がそう返すと、皆川は少し照れたように俯いて、自分のデスクへ戻っていった。言いかけた続きを、皆川はとうとう口にしなかった。何かに気づいていたのか、それともただの世間話をしかけただけだったのか、黒瀬には分からなかった。ただ、彼女が言葉を呑み込む瞬間の、あの一拍の間だけが、妙に記憶に残った。
 黒瀬はその平穏さの中に自分だけが違う温度を持っていることを、誰にも気づかれないようにしていた。
           
 夜、フロアに人気がなくなってから、黒瀬は改めて資料と向き合った。
 昨夜まとめたダイトウ物産の集計表を横に置き、今度は他の取引先の伝票も引っ張り出す。増田の「値上がりならよくある話」という言葉と、浜田がふと漏らした「東雲商会」という社名が、頭の中で重なっていた。もしよくある値上がりの話なら、同じ時期に他の取引先でも似たような単価変動が起きているはずだ。市況の話なら、一社だけ突出するのはおかしい。
 黒瀬は半年分の伝票を、取引先ごとに机の上へ広げていった。ダイトウ物産、東雲商会、その他数社の原材料仕入れ。担当した部署、承認者の欄。ひとつひとつに蛍光ペンで印をつけながら、突き合わせていく。
 三月、東雲商会。単価が市場相場よりわずかに高い。四月も同様――指が、そこで止まった。
 黒瀬は伝票をめくる手を止め、蛍光灯の低い唸りだけが耳に残る中で、もう一度同じ行を目でなぞった。見間違いではない。五月、六月と、月をまたいで同じだけの差額が、判で押したように積み上がっている。
 最初は、ダイトウ物産だけの問題だと思っていた。だが並べてみると、似たような差額のパターンが、東雲商会をはじめとする別の取引先の帳簿にも、同じ月にわずかながら現れている。金額の規模はダイトウが最も大きいが、明らかに同じ手口――市場価格よりわずかに高い単価を設定し、差額を積み上げる形――が、複数の取引先にまたがって繰り返されていた。
 承認欄に、指を這わせる。判の押し方に、見覚えがあった。少し右肩上がりに傾いた、独特の癖のある押し方。何度も見てきたその判は――榊原のものだ。
 東雲商会の伝票をもう一枚めくる。同じ傾きの判。次の一枚も、また次の一枚も。
 偶然にしては、あまりに規則的すぎる。
 黒瀬は蛍光ペンを置き、広げた伝票の束を見渡した。これは誰か一人のミスでは説明がつかない。複数の取引先、複数の月にまたがって、意図的に資金が付け替えられている。しかもその流れは、部署をまたいで巧妙に分散されており、個々の伝票だけを見ていては絶対に気づかれない作りになっていた。
 ――これは、個人の不正なんかじゃない。
 黒瀬の背筋に、昨夜よりも冷たいものが這い上がった。
 誰か一人の入力ミスでも、一人の横領でもない。これは、組織として動いている金の流れだ。
 蛍光灯の白い光の下、黒瀬は広げた伝票の束を前に、しばらく身動きひとつせずに座っていた。まだ引き返せる。見なかったことにして、明日もいつも通り仕事をこなせばいい。榊原の言う通り「大人の判断」に従えばいい。
 だが、頭の中でどれだけそう繰り返しても、指先はもう蛍光ペンを置く気にはなれなかった。
 これは、見なかったことにできる類のものではない。黒瀬はそう確信していた。
=== 2 · 深夜のオフィスで ===
オフィスの照明は半分落とされていた。
 午後十一時。明和商事、経理部のフロアには黒瀬亮ひとりだけが残っていた。モニターの光が、疲れた顔を青白く照らしている。キーボードを打つ音だけが、静まり返った部屋に規則正しく響いていた。
 黒瀬は今月の取引先別支払明細を、朝から何度も見直していた。頼まれたわけではない。ただ、来月から新しく担当することになった海外原材料の仕入れ案件について、前任者から引き継いだ資料に目を通しているうちに、どうにも数字の並びが気になり始めたのだ。
 几帳面な男だった。学生時代から、提出物の期限を破ったことがない。会社に入ってからも、頼まれた仕事は必ず一晩早く仕上げて見直しの時間を作る。そういう性分だった。誰に褒められるでもない地味な仕事を、誰よりも丁寧にこなす。それが黒瀬の、ささやかな誇りだった。
 画面に表示された取引先「ダイトウ物産」への支払記録を、指でなぞる。
 ――おかしい。
 同じ商品の仕入れなのに、月によって単価がばらつきすぎている。しかも、その差額はいつも決まって月末の数日間に集中して発生していた。担当者の記載欄には、いずれも「榊原」の承認印がある。
「……いや、単なる入力ミスか」
 黒瀬は独り言ちて、椅子の背にもたれた。天井を見上げる。蛍光灯の白い光が目に染みた。
 榊原は黒瀬の直属の上司で、経理課長だった。面倒見がよく、新人の頃から何かと目をかけてくれた人だ。仕事のやり方に迷ったときは真っ先に相談する相手だったし、飲み会でも気さくに声をかけてくれる。その人の名前が入った書類に不審を抱くこと自体、黒瀬にはどこか居心地の悪いものがあった。
 もう一度、数字を追う。
 単純な打ち間違いなら、金額の桁がずれるとか、数字が入れ替わるとか、そういう分かりやすい形になるはずだ。だがこれは違う。単価そのものが、市場価格よりわずかに――しかし確実に――高く設定されている。しかも一度や二度ではなく、この半年、毎月同じパターンで繰り返されていた。
 黒瀬は資料をプリントアウトし、蛍光ペンで該当箇所に印をつけていく。几帳面な手つきで、抜け漏れがないよう慎重に。
「……今日はここまでにするか」
 時計は零時近くを指していた。黒瀬は資料をクリアファイルにまとめ、鞄の内ポケットに大事にしまうと、フロアの照明を落として会社を後にした。
           
 翌朝、経理部のフロアはいつも通りの喧騒に包まれていた。
「黒瀬、おはよう。また残業してたのか」
 声をかけてきたのは同期の増田だった。手にはコンビニのコーヒーを持ち、いつもの人懐こい笑みを浮かべている。
「ああ、ちょっと引き継ぎの資料見てて」
「相変わらず真面目だなお前。俺なんて定時で帰って昨日はゲームしてたぞ」
 増田は笑いながら黒瀬の肩を軽く叩いた。フロアの向こうでは、総務の桐生が朝礼の準備をし、隣の営業事務の戸田が電話応対に追われている。奥のコピー機の前では、経理部の先輩社員・浜田が書類の束を抱えて何やらぼやいていた。
「黒瀬さん、おはようございます」
 控えめな声で挨拶してきたのは後輩の皆川だった。まだ入社二年目で、いつも遠慮がちに話す。
「おはよう。今日の伝票処理、手伝おうか」
「あ……いえ、大丈夫です。その、自分でやってみます」
 皆川は小さく頭を下げると、自分のデスクへ戻っていった。黒瀬はその背中を見送りながら、少し口元を緩めた。控えめだが、真面目に仕事に取り組もうとする姿勢は嫌いではなかった。
「黒瀬くん、ちょっといいか」
 奥の課長席から声がかかる。榊原だった。書類を片手に、いつもの穏やかな表情を浮かべている。
「はい」
「例の引き継ぎ案件、どうだ。何か分からないことがあれば遠慮なく聞いてくれ。君のためを思って言うんだが、最初が肝心だからな」
「……ありがとうございます。今のところは、資料を読み込んでいる段階です」
「そうか。まあ、大人の判断としてね、細かい数字より全体の流れを掴む方が先だ。君は真面目すぎるところがあるから、あまり根を詰めるなよ」
 榊原はそう言って軽く笑い、席に戻っていった。黒瀬は小さく頭を下げてから、自分のデスクについた。
 その日は一日中、通常業務に追われた。他部署からの問い合わせ、経費精算のチェック、月次報告の準備。合間に増田が雑談を持ちかけてきたり、昼休みには皆川と連れ立って近くの定食屋に行ったりもした。
「黒瀬さんは、いつも仕事が丁寧ですよね」
 定食屋で皆川がぽつりと言った。
「そう見えるか? ただ、間違えるのが怖いだけだよ」
「私も、黒瀬さんみたいになりたいです」
 皆川は照れたように笑い、味噌汁を口に運んだ。黒瀬はそれに対して特に気の利いた返しをするでもなく、ただ小さく頷いただけだった。それでも、周囲からこうして頼りにされることに、悪い気はしなかった。信頼というものは、こういう小さな積み重ねの上に成り立つものだと、黒瀬は素朴に信じていた。
           
 夜、フロアに人がまばらになった頃、黒瀬は再びダイトウ物産の資料を開いた。
 昼間の榊原の言葉が頭の片隅に残っていた。「全体の流れを掴む方が先」――それは正論だ。だが、正論であればあるほど、逆に胸の奥に小さな棘のように引っかかった。全体の流れを見るためには、まず個々の数字を疑ってかかる必要がある。それが黒瀬のやり方だった。
 半年分の伝票をすべて洗い直す。単価の差額を月ごとに集計し、表にまとめていく。作業は単調で、根気のいるものだったが、黒瀬は苦にしなかった。むしろ、こういう地道な作業にこそ、自分の仕事の意味があると思っていた。
 集計表が完成したのは、日付が変わる少し前だった。
 黒瀬は画面に表示された合計額を見て、思わず息を止めた。
 ダイトウ物産一社、半年間の取引だけで発生した差額の総計。それは、ちょっとした入力ミスや処理の手違いで説明のつく規模ではなかった。一件あたりは小さくとも、それが毎月、意図的としか思えない規則性で積み重なっている。単純に足し合わせただけで、黒瀬の月収の何十倍もの金額になっていた。
 しかも、承認欄にはいつも同じ名前が並んでいた。
 ――榊原。
 黒瀬は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯の光がやけに白く、冷たく感じられた。
 これは、自分が思っていたような単純な話ではない。これがたった一社分だとしたら、他の取引先はどうなのか。
 背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がっていった。
=== 3 · 綻びの兆し ===
朝一番、黒瀬は榊原のデスクの前に立っていた。
「課長、少しよろしいですか」
「ん、何だ黒瀬くん。まあ座れよ」
 榊原は自分の隣の空いた椅子を軽く手で示した。フロアはまだ朝礼前で、桐生が資料を配って回り、戸田が朝一番の電話に応答している。浜田はコピー機の前で紙束を数えながら、誰にともなく「今日も多いな」とぼやいていた。窓の外は薄曇りで、始業前の光がフロアの床にぼんやりと伸びている。エアコンの効きはまだ弱く、コーヒーの匂いと紙とインクの匂いが混じった、いつもと変わらない朝の空気だった。誰も彼もが、昨日と同じ顔で、昨日と同じ仕事を始めようとしていた。
 黒瀬はクリアファイルの中から、昨夜まとめた集計表を一枚だけ取り出した。すべてではない。まずは反応を見るための、控えめな一枚だった。数字はまだ全体のごく一部しか見せない――そういう小出しの慎重さは、我ながら少し嫌になるくらい身についた癖だった。
「東雲商会の分なんですが、ここ数か月、単価が市場相場よりわずかに高い状態が続いていて。ダイトウ物産でも似たような傾向があって、ちょっと気になっています」
 榊原はその紙を受け取り、老眼鏡越しに目を落とした。表情はいつもと変わらない。穏やかで、面倒見のいい上司の顔のままだった。
「……なるほどな」
 榊原は紙を軽く指で叩き、しばらく黙って数字を眺めた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「黒瀬くん。これは、誰かに見せたか」
「いえ、まだ課長にしか」
「そうか」
 榊原はほっとしたようにも、確認するようにも見える息を、小さく吐いた。
「まあ、値上がりの時期が重なることは、業界としては珍しくない。原材料市況が動けば、複数の取引先で似た動きが出るのは自然なことだ。君のためを思って言うんだが、こういうのはあまり深追いしすぎると、かえって取引先との関係に角が立つ」
「……そう、なんですね」
「大人の判断としてはな。ただ、まあ――」
 榊原は言葉を切り、書類をこちらに返してきた。指先が紙の端に触れた瞬間、黒瀬はふと、いつもより一拍長い間があったことに気づいた。数字の異常を疑うときと同じ目で、いま自分は榊原のわずかな仕草を数えている――そのことに気づいて、少し自嘲めいた気持ちになった。
「一応、私の方でも確認しておくよ。君は通常業務に戻ってくれ」
「はい……分かりました」
 黒瀬は頭を下げて席に戻った。榊原の言葉自体は、これまでと変わらない。むしろいつも通り、筋の通った物言いだった。だが、紙を受け取ったときのあの一拍と、こちらの目をまっすぐ見なかった数秒だけが、妙に胸に残った。
           
 昼過ぎ、給湯室で顔を合わせた増田に、黒瀬はさりげなく切り出した。
「なあ、増田。もし――取引先の単価がずっと不自然に高いままだったとして、それが一社二社じゃなくて、何社もにまたがって同じパターンで起きてたら、お前ならどう思う」
「は? 急に何だよ、そんな話」増田はマグカップにコーヒーを注ぎながら、軽く笑った。「まあ……そりゃ普通に考えりゃ変だろうけどさ。でも、それって黒瀬が今言ってる話だろ? 想像の話じゃなくて」
「……いや、仮の話だ」
「ふうん」増田は少し探るような目を向けたが、すぐに肩をすくめた。「まあ、榊原さんが確認するって言ったんなら、それでいいんじゃねえの。あの人、面倒見いいし、変なことは放っておかないだろ。俺らが横からごちゃごちゃ言うことでもないっていうか」
「……そうだな」
「な? だから深く考えすぎんなって。黒瀬、真面目すぎ」
 増田はそう言って、いつもの調子で黒瀬の肩を軽く叩き、給湯室を出ていった。悪意はどこにもない。ただ、誰かがもう見ていると聞いた途端、それ以上考えるのをやめてしまう。その素直さに、黒瀬は何も言い返せなかった。手にしたままの紙コップの中で、コーヒーはもうすっかり温さを失っていて、それを一口飲んだとき、喉の奥に苦味だけがざらりと残った。増田の言葉には裏がない。裏がないからこそ、何かに蓋をされたような重さが、胸の底に静かに沈んでいった。
           
 午後、黒瀬が資料室から戻ると、皆川がデスクの脇でファイルを整理していた。
「黒瀬さん、お疲れさまです」
「ああ、皆川か」
「あの……今朝、榊原課長のところに行ってましたよね」
 皆川は言いながら、視線をわずかに逸らした。手元のファイルの角を、指先でとんとんと揃えている。
「ん、まあ。ちょっと確認したいことがあって」
「そう、なんですね……」
 皆川はそこで言葉を止めた。何か続けようとした気配があったが、結局それ以上は出てこなかった。代わりに、ファイルを胸に抱えるようにして、視線を伏せた。
「皆川?」
「……いえ、何でもないです。すみません、戻ります」
 皆川は小さく頭を下げると、逃げるように自分のデスクへ戻っていった。その背中を見送りながら、黒瀬はさっきの一瞬――視線が泳いだあの間――が、ただの照れや遠慮とは違う何かを含んでいた気がしてならなかった。あれは、何かを知っていて言えない人間の間だ、と思った。根拠はない。それでも、経理の数字の綻びを見抜くときの勘に近いものが、そう告げていた。
 だが、確かめる術はない。皆川は誰よりも控えめで、こちらから踏み込まなければ何も語らない性分だった。
           
 夜、フロアに残ったのは黒瀬ひとりだった。
 机の上には、まだ榊原には見せていない残りの資料が積まれている。複数の取引先、複数の部署にまたがる差額の全容。今朝見せたのは、そのほんの一部でしかなかった。
 ――全部を見せるべきか。
 黒瀬は椅子に深くもたれ、天井を見上げた。榊原に見せれば、話は正式に上へ動くかもしれない。だがそれは同時に、経理部だけでなく、会社全体を巻き込む話になるということでもあった。そこまでの覚悟が、自分にあるのか。
 もし全容を明るみに出せば、承認欄に名を連ねる誰かの経歴に傷がつく。部署をまたぐ話なら、関係のない同僚たちの評価にまで飛び火するかもしれない。自分自身、それで職を失う可能性だってゼロではない。そこまでのリスクを背負ってまで、確信のない疑念を上げる価値があるのか――何度考えても、答えは出なかった。
 几帳面な性分が、こういうときに限って余計に悪く働く。白か黒かをはっきりさせないと気が済まないくせに、いざその一歩を踏み出す段になると、無数の「もし」が頭の中で渋滞して足を止めさせる。
 今朝の榊原の、一拍の間。
 増田の、あっさりとした「見てるならいいじゃん」。
 皆川の、言いかけてやめた言葉。
 どれも取り立てて騒ぐほどのことではない。誰もが普段通りに振る舞い、誰も黒瀬に何かを隠しているようには見えなかった。それでも、三つの小さな違和感――紙を受け取る一拍、コーヒーの苦味とともに残った重さ、伏せられた目の奥の迷い――が、黒瀬の中で妙に静かに重なっていった。それぞれは別々の、取るに足らない仕草でしかない。だが並べてみると、まるで示し合わせたように同じ方向を向いている気がして、それが余計に不気味だった。
 几帳面な自分の性分が、また考えすぎているだけかもしれない。そう思おうとした。だが、数字を疑うのが仕事なら、人の態度の綻びに気づくのもまた、同じ性分のはずだった。仕事なら裏付けを取るまで結論を出さない。今この状況にも、同じやり方を貫くべきだと自分に言い聞かせた。
 黒瀬は資料をクリアファイルにしまい、鞄の中に沈める。フロアの照明を落として会社を出るとき、ふと榊原のデスクの方を振り返った。誰もいない椅子が、蛍光灯の消えかけた光の中で、ただ静かにそこにあるだけだった。その静けさが、今はやけに空々しく見えた。
           
 翌日、給湯室で顔を合わせた榊原は、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「ああ、黒瀬くん。例の件だがな、私の方で軽く確認してみたよ。今のところ、特に問題があるようには見えないな」
「……そう、ですか」
「まあ、念のためもう少し様子を見ておこう。君は今の担当業務に集中してくれ」
 言葉は昨日と同じくらい穏やかで、口調にも乱れはなかった。だが、榊原の視線はどこか黒瀬の背後――フロアの奥に向けられていて、こちらの目をまっすぐには見ていなかった。用件だけを告げて立ち去るその後ろ姿は、いつもより一歩、遠く感じられた。給湯室に残ったコーヒーの匂いだけが、やけにはっきりと鼻についた。
 振り返ると、少し離れたデスクで、皆川がこちらを見ていた。目が合うと、皆川はすぐに視線を逸らし、何事もなかったように書類へ顔を伏せた。だがその一瞬、伏せられた目の中に、迷うような、何かをこらえるような色があった気がした。
 黒瀬は自分のデスクに戻りながら、その二つの視線の意味を、まだ言葉にすることができなかった。ただ、昨日まではなかった小さな距離が、今日は確かにそこにあった。数字であれば裏付けが取れるまで判断を保留できる。だが人の態度にそういう裏付けはない。その分からなさだけが、今日も黒瀬の中に居座り続けていた。
=== 4 · 「大人の判断」の壁 ===
その週末、黒瀬は自宅のアパートで、集めた資料をもう一度すべて広げ直した。
 ダイトウ物産、東雲商会、その他数社。部署も経理だけでなく、購買、営業事務にまで及んでいる。半年分の伝票番号と単価の推移を一覧にした表は、印刷すると三十枚近くになった。どのページにも、共通する一つの署名欄があった。榊原の承認印。
 ――もう、仮の話では済まない。
 几帳面な性分が、最後にはいつも同じ結論を導く。白黒つけずに放っておくことが、黒瀬には一番苦手なことだった。
 資料を鞄にしまいかけて、黒瀬の手はふと止まった。
 このまま黙っていれば――日常は今のまま続く。榊原との、これまで通りの信頼関係。増田との気安い雑談。皆川が慕ってくれる、先輩としての立場。数字の異常など見なかったことにして、月曜の朝からいつも通り伝票を捌いていればいい。誰も、黒瀬がここまで調べ上げたことなど知らない。今ならまだ、何もなかったことにできる。
 その考えは、思いのほか長く黒瀬の中に居座った。だが結局、黒瀬は小さく息を吐いて、その誘惑を押しのけた。気づいてしまった以上、気づかなかったことにはできない。それは経理の仕事の建前以前に、自分という人間がどう作られているかの問題だった。数字を最後まで確認しないと気が済まない性分は、都合の悪い数字からだけ目を逸らすことを許してくれない。
 月曜、始業前にもう一度だけ、榊原に全部を見せる。そのうえで、正式にコンプライアンス窓口へ報告を上げるべきだと伝える。そう決めて、資料をクリアファイルに揃え直し、鞄の底に沈めた。
           
 月曜の朝、黒瀬は榊原に声をかけ、空いている小会議室を取った。フロアの隅の給湯室脇での立ち話ではなく、扉の閉まる部屋を選んだのは、今日は「仮の話」にしないという、自分自身への区切りのつもりだった。
 桐生が朝礼用の資料をコピー機から抱えて運び、戸田は電話の子機を肩に挟んだまま伝票を繰っている。浜田は今日も紙束を数え直しながら「先月より多いな」とぼやいていた。いつもと同じ、平凡な月曜の朝だった。その平凡さの中を横切って、黒瀬は資料の入った鞄を提げ、小会議室へ向かった。
「課長、お時間いただいてすみません」
「ん、構わないよ。何だか改まって、どうした」
 榊原はいつもの穏やかな笑みでパイプ椅子に腰を下ろした。黒瀬はテーブルの上にクリアファイルを置き、中の資料を一枚ずつ並べていく。今度は一部だけではなかった。ダイトウ物産、東雲商会、その他の取引先、部署をまたいだ差額の一覧――半年分のすべてを、榊原の前に広げた。
「先週お見せしたのは、全体のごく一部でした。実際には、これだけの範囲にわたって同じパターンが出ています」
 榊原は資料に目を落とした。表情はすぐには変わらなかった。老眼鏡の奥の目が、ゆっくりとページをめくる指の動きに合わせて動いていく。
「……随分、集めたな」
「はい。これは、一つの取引先の値上がりとか、そういう規模の話じゃないと思います。複数の部署、複数の取引先で、同じ手口が繰り返されています。個人のミスとは考えにくいです」
 黒瀬は言葉を選びながら、しかしはっきりと言った。声は昨日までのように、遠慮がちな相談口調ではなかった。
「このまま経理部内だけで抱えているのは、良くないと思います。コンプライアンス窓口に、正式に報告を上げるべきだと考えています」
 部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。廊下の向こうから、桐生が誰かに朝礼の時間を告げる声がかすかに届いた。
「……そうか」
 榊原はそう言うと、資料の束をゆっくりと閉じ、テーブルの端に寄せた。表情に浮かんでいた穏やかさは変わらなかったが、その下に何か別のものが差し込まれたのを、黒瀬は感じた。
「黒瀬くん。君の気持ちも、真面目さも分かる。分かるが――これを正式なルートに上げるということが、どういうことか、君は分かっているか」
「……どういうこと、とは」
「経理の中だけの話じゃなくなる、ということだよ」榊原は指先で資料の端をとんとんと揃えた。「コンプライアンスに上がれば、監査が入る。承認欄に名前がある人間全員が調べられることになる。私も含めてね。それに、部署をまたいだ話となれば、購買も営業事務も巻き込まれる。関係のない人間の評価にまで、傷がつくかもしれない」
「それは、分かっています。ですが、事実として――」
「事実、事実とね」榊原は小さく笑ったが、目は笑っていなかった。「まあ、大人の判断としてね、聞いてくれるか。こういう話は、確たる証拠もないまま持ち上げると、かえって君自身の首を絞めることになる」
「証拠なら、ここに」
「証拠、証拠とは言うがね」榊原は資料の一番上のページを、人差し指で軽く叩いた。「この集計は、誰が作った? 君だ。この差額に最初に気づいて、伝票を突き合わせて、一人で調べ上げたのも君だ。……分かるかな、黒瀬くん。監査というのは、疑わしい動きをした人間を、まず疑うところから始まるものなんだよ」
 黒瀬は一瞬、榊原の言葉の意味を測りかねた。
「……それは、どういう」
「君のためを思って言うんだが」榊原はゆっくりと椅子に背をあずけ、資料から目を離して黒瀬を見た。その視線は、いつもの面倒見の良い上司のものとは、どこか温度が違って見えた。「もし本当にこれが誰かの意図的な仕組みだとして、それを一番詳しく知っている人間が誰かと聞かれたら――君の名前が、まず挙がることになる」
「……課長は、私が疑われると?」
「疑われる、というよりね」榊原はテーブルの上で軽く両手を組んだ。「これだけ集計する時間も、誰にも言わずに調べ回った理由も、上の人間からすれば、都合よく説明できてしまうということだ。君が一人でこれをやったことにされても――私は、そこまでは庇いきれないよ」
 部屋の空気が、一段冷たくなった気がした。窓の外では、桐生が朝礼のためにフロアの照明を一段明るくしたのか、蛍光灯の白さがドア下の隙間からわずかに差し込んでいる。榊原の声は、怒鳴るでも、責めるでもなかった。ただ静かに、事務的に、当然のことを告げるような口調だった。
「私だって、君の味方でいたいさ」榊原は資料をまとめて黒瀬の方へそっと押し戻した。「だが、こればかりは、私にもどうにもできない部分がある。……今日聞いた話は、私の方で預かっておくよ。君は、いったんこの件から手を引いて、通常業務に戻りなさい」
「課長――」
「大人の判断だよ、黒瀬くん」
 榊原はそう言って立ち上がると、資料の束をひとまとめにして自分の脇に抱え、先に小会議室を出ていった。黒瀬の手元には、何も残らなかった。渡したはずの証拠は、榊原の腕の中にある。
 しばらく、黒瀬は椅子に座ったまま動けなかった。何を言われたのか、頭の中で反芻する。疑われる。仕立てられる。庇いきれない。どれも、直接の脅しの言葉ではなかった。それでも、並べてみれば意味することは一つしかなかった。
 ――このままでは、都合の悪い部分だけ、自分に押しつけられる。
 榊原は今しがた、味方でいたいと言った。その言葉と、資料を抱えて先に出ていった背中との間には、埋めようのない隔たりがあった。黒瀬が半年かけて積み上げた数字は、もう黒瀬の手の届かないところにある。取り返しに行くべきなのか、それとも大人しく従うべきなのか、頭では答えが出ない。ただ、椅子から立ち上がる気力が、しばらくの間戻ってこなかった。
 黒瀬がようやくフロアに戻ると、皆川がちょうど廊下ですれ違い、何か言いかけるように口を開いた。だがすぐに視線を伏せ、「……おはようございます」とだけ小さく告げて自分のデスクへ足早に戻っていった。その挙動不審な様子に気づく余裕は、今の黒瀬にはなかった。
 フロアに戻ると、増田が伝票の束を抱えて通りかかり、明るく声をかけてきた。
「お、黒瀬。榊原さんと何話してたんだよ、朝からえらい真剣な顔して」
「……いや、別に」
「まあ、榊原さんがいるなら大丈夫だろ。あの人、うまくやってくれるって」増田は軽く笑って、伝票の束を抱え直した。「それより、あんまり一人で抱え込んで首突っ込むなよ。お前、真面目だから心配になるわ」
 悪意のかけらもない、いつも通りの口調だった。心配してくれているつもりなのだろう。だがその言葉は、これ以上調べるな、深入りするなという合図と、何ら変わりがなかった。増田はそう言うと、いつも通りの調子で自分のデスクへ戻っていった。
 その明るさが、今の黒瀬には、どこまでも遠い場所からの声のように聞こえた。
=== 5 · 軽くなる約束 ===
朝、フロアに足を踏み入れた瞬間、黒瀬は自分を見る目の温度が変わっていることに気づいた。
 誰かが黒瀬に気づいて視線を上げ、そのままふっと逸らす。それだけのことだった。声を荒げられたわけでも、はっきり何かを言われたわけでもない。それでも、コピー機の前で立ち話をしていた桐生と戸田が、黒瀬が近づくと申し合わせたように言葉を切ったのを、黒瀬は見た。
「……おはようございます」
「あ、うん、おはよう」
 桐生の声は普段より一段高く、早口だった。戸田は手元の伝票に視線を落としたまま、小さく頭を下げただけだった。二人はすぐにコピー機の紙詰まりの話に戻ったが、黒瀬が背を向けるまで、その話題は続かなかった。
 浜田は今日も紙束を数え直していたが、黒瀬と目が合うと、いつものぼやきを飲み込むように口をつぐんだ。何かを言いかけて、結局「……おはよう」とだけ言った。
 具体的に何を言われたわけでもない。誰も黒瀬を責めてはいない。だが喉の奥に、小さな小骨が刺さったような違和感が残った。数字の異常を見つけたときと同じ感覚だった。理由は分からないが、確かに何かがずれている。
 黒瀬は自分のデスクにつき、伝票を繰りながら、頭の隅で榊原とのやり取りを反芻していた。――疑われる。仕立てられる。庇いきれない。あの言葉が、この空気の変化と無関係だとは、どうしても思えなかった。
 昼近く、給湯室でコーヒーを淹れていると、増田が入ってきた。いつもの調子で、軽く手を挙げる。
「よお、黒瀬」
「……増田」
 黒瀬は少し迷ってから、声を落として切り出した。
「聞きたいことがあるんだが。……最近、私について、何か聞いていないか」
「ん? 何が」
 増田は本気で分からないという顔をした。少なくとも、その瞬間はそう見えた。黒瀬は紙コップを両手で包みながら、言葉を選んだ。
「先日、課長に相談した件だ。仮の話としてだが……あれから、フロアの空気が、少し変わった気がしてる」
「ああー、そういうことか」増田は笑って、黒瀬の肩を軽く叩いた。「気にしすぎだって。大丈夫だよ、悪いようにはしない。榊原さんがちゃんと見てくれてるんだから」
 その言葉に、黒瀬は少しだけ息を吐いた。増田の口調はいつも通り軽く、悪意など欠片もない。信じてもいいのかもしれない、と思いかけた。
 だが増田は続けて、湯呑みを手に取りながら、何気ない調子でこう付け加えた。
「ただまあ……部長のとこから、なんか小耳に挟んだんだけどさ。経理で妙な調べ物してた奴がいるらしいって、そういう話が回ってきてるみたいでさ。誰のことかまでは、俺も詳しく知らないけど」
「……それは」
「いや、お前のことだって決まったわけじゃないだろ?」増田は慌てたように付け加えたが、その慌て方が、かえって黒瀬に確信を抱かせた。「ただ、変な噂が独り歩きしてるだけかもしんないし。まあ、あんまり気にすんなって」
 黒瀬は何も言えなかった。噂の出所を辿れば、行き着く先は一つしかない。榊原が黒瀬から回収した資料――あれが、どこかで形を変えて、上に伝わっているということだ。誰が黒瀬をやったことにしているのか、増田はまだ何も知らない。ただ空気だけを、そのまま吸い込んでいる。
「増田、お前は……」
「ん?」
 黒瀬は続きの言葉を、結局呑み込んだ。お前は私の味方でいてくれるのか、と聞くことが、急にひどく子供じみたことのように思えたからだった。
「……いや、何でもない」
「何だよ、変な黒瀬だな」増田は笑って、湯呑みを片手に給湯室を出ていこうとした。だがその足が、扉の手前で一瞬止まった。振り返らないまま、少しだけ声を落として言う。
「……黒瀬。悪いことは言わないから、その件、もうあんまり自分から広げない方がいいと思うぞ。噂って、火のないところに煙は立たないとか言うけど、実際は逆のことも多いからさ」
「増田」
「じゃあな。午後の会議、遅れるとやばいから」
 増田はそう言い残し、振り返ることなく給湯室を出ていった。廊下の先で、誰かと挨拶を交わす明るい声が、すぐに聞こえてきた。いつもと変わらない、あの人当たりの良さだった。あの声には、たった今黒瀬から一歩退いたという自覚など、微塵もないのだろう。それが分かるからこそ、黒瀬は増田を憎む気にもなれなかった。
 黒瀬は紙コップの中身を見下ろした。湯気はもうほとんど立っていなかった。ひと口飲むと、ぬるくなったコーヒーの苦味だけが、喉の奥にざらりと残った。
 悪いようにはしない――そう言った増田の声を、黒瀬は頭の中で繰り返してみた。数分前には、たしかにあの言葉に縋りたい気持ちがあった。だが今は、同じ言葉のはずなのに、やけに軽く、手のひらの上をするりと滑り落ちていくように感じられた。増田は嘘をついたわけではない。ただ、噂を運んできて、そのまま噂と一緒に離れていっただけだ。
 フロアに戻る途中、廊下の角で皆川とすれ違った。皆川は黒瀬に気づくと、一度だけ足を止め、何か言いかけるように口を開いた。
「黒瀬さん、あの……」
「……皆川?」
 皆川はそこで言葉を止めた。目は逸らさなかった。ただ、口を半分開いたまま数秒、何も言わずに黒瀬を見ていた。言うべきことと、言ってはいけないことが、喉の途中でせめぎ合っているような間だった。抱えたファイルを持つ指先に、じわりと力がこもるのが分かった。
「……いえ、何でもないです。すみません」
 声は小さく、それでいて妙にはっきりと発音されていた。まるで、それ以上は何も続けないと自分に言い聞かせるような声だった。そう言って、皆川は逃げるように自分のデスクへ戻っていった。足取りは早く、だが振り返りはしなかった。
 その背中を見送りながら、黒瀬はまた喉の奥に、あの小さな小骨のような違和感を覚えた。視線を逸らされたわけではない。むしろまっすぐ見られていた分だけ、皆川があの数秒で何かを懸命に堪えていたことが、黒瀬にも伝わってきた。皆川は何かを知っている、あるいは何かに気づいている。だが、それを口にする勇気までは持っていない。分かっていて言えないという事実のほうが、視線を逸らされるよりもかえって重く、黒瀬の胸に残った。
 午後の伝票整理をこなしながら、黒瀬はふと、榊原に資料を渡した日のことを思い出していた。あのとき榊原は、味方でいたい、と言った。今日、増田は、悪いようにはしない、と言った。言葉はどちらも優しかった。だが、どちらの言葉の後にも、相手はきちんと黒瀬から一歩、距離を取っていった。皆川に至っては、言葉さえ残していかなかった。
 誰も、はっきりと黒瀬を切り捨てたわけではない。それなのに、気づけば周りに、少しずつ隙間ができていく。その隙間が何によって作られているのか、黒瀬にはまだ、名前をつけることができなかった。
=== 6 · あと少しの沈黙 ===
給湯室に人の気配がないことを確かめてから、黒瀬はポットの湯を紙コップに注いだ。
 午後三時。フロアの誰もが伝票の山と電話の合間を縫って、それぞれの持ち場に張り付いている時間だった。この時間帯の給湯室に人が来ることは、めったにない。だからこそ黒瀬は、わざわざこの時間を選んで席を立った。
 誰かと二人きりで話せる場所が、もうこのフロアのどこにもない気がしていた。
 扉が開く音がして、振り返ると皆川が立っていた。手には空の湯呑みを持ったまま、黒瀬の顔を見て一瞬、体を強張らせるのが分かった。
「……あ」
「皆川さん」
 黒瀬は静かに名を呼んだ。それだけで、皆川はその場に立ち尽くしてしまったようだった。逃げようとすれば逃げられる距離だったが、皆川は動かなかった。動けなかったのかもしれない。
 二人きりになったのは、四日前の廊下以来だった。あのとき皆川は「……いえ、何でもないです」とだけ言って、逃げるように去っていった。それからというもの、皆川はいつも誰かと一緒にいるか、忙しなく席を立っていて、黒瀬と目を合わせることさえ避けているように見えた。
 偶然だとしても、この十数秒が最後の機会かもしれない。黒瀬はそう思った。
「……少し、いいですか」
 皆川は答えなかった。ただ小さく頷いた。頷いたことが、答えの代わりだった。
 黒瀬は紙コップを両手で包んだまま、言葉を選んだ。慎重に、順序立てて話すことに慣れている自分の癖が、こんな場面でも抜けなかった。榊原には仮の話だと前置きして探りを入れるだけで済ませたし、増田には踏み込みすぎない程度に世間話として流した。だが皆川には、それとは違う言葉を選ぼうとしている自分に、黒瀬は気づいていた。急かすように問い詰めれば、この後輩はまた竦んで、何も言えなくなる。それだけは分かっていた。
「聞きたいことがあるんです。仮の話でも、憶測でも構いません。……皆川さんは、何か知ってるんじゃないかと、思ってるんですが」
「……」
「フロアの空気が変わった理由なんです。噂の中身が、どこまで本当なのか。皆川さんなら、何か聞いているんじゃないかと思って」
 皆川は俯いたまま、湯呑みを持つ手に力を込めた。指の関節が白くなるのが、黒瀬にも見えた。
「私は……」
 声はそこで途切れた。皆川は顔を上げ、黒瀬を見た。その目には、これまでの数秒間とは違う何かがあった。言葉になる寸前の何かが、喉のあたりでせめぎ合っているのが分かった。
「黒瀬さんは、何も悪いことなんて、してないと思います」
 それだけを、皆川は一息に言った。声は小さかったが、初めて濁らずに発音された言葉だった。
 黒瀬は、思わず息を止めた。この五日間で、誰からも聞くことのできなかった一言だった。榊原は「大人の判断」としか言わず、増田は「悪いようにはしない」と言いながら距離を取った。誰も、黒瀬がやったこと自体を「間違っていない」とは言ってくれなかった。
「……本当に、そう思いますか」
「はい。だって、水増しの件を、黒瀬さんが見つけて、それをちゃんと調べて……それの、どこがいけないことなんですか」
 皆川の声は、そこで初めて震えを帯びた。目にはうっすらと光るものがあった。だが、その先の言葉に、皆川はすぐに詰まってしまった。
「その……でも」
「でも?」
「……部長のところから、その、榊原さんが……」
 言いかけて、皆川は口を噤んだ。榊原、という名前が出た瞬間、まるで見えない糸に引かれたように、皆川の視線がわずかに給湯室の外――誰もいないはずの廊下の方へ動いた。
 黒瀬は、動かなかった。急かせば、この続きは永遠に出てこない気がした。
「皆川さん」
「……私、聞いたんです」皆川はようやく、声を絞り出すように続けた。「今日の朝、榊原さんが神谷部長と、廊下で立ち話をしているのを。詳しくは、聞こえなかったんですけど……黒瀬さんの、名前が出て」
「私の名前が」
「はい。その後で、榊原さんが私のデスクのところに来て……何でもない世間話みたいな感じで、『皆川さんは、変な噂に振り回されるタイプじゃないよね』って。そう、言われて」
 黒瀬の中で、何かが静かに焦点を結んだ。榊原は、まだ動いている。資料を回収した日から五日、あの男は何もしていないわけではなかった。皆川のような、周りに流されやすい若手にまで、静かに手を回している。
「それで、皆川さんはどう答えたんですか」
「……『そうですね』って、頷きました」
 皆川の声は、そこでかすれた。俯いた顔から、湯呑みの上に、小さな水滴が一つ落ちるのが見えた。皆川は慌てて目元を拭ったが、涙だったのかどうか、黒瀬には確かめようもなかった。
「私、本当は分かってるんです。黒瀬さんが正しいことをして、それなのに、周りの空気だけがおかしくなってて……それを、榊原さんがきっと、何かしてるんだって。分かってるのに」
 皆川はそこまで言って、大きく息を吸った。何かを決めるような、そんな間だった。黒瀬は、皆川の次の言葉を、ただ待った。
 だがその瞬間、廊下の向こうで、電話の呼び出し音が二回、三回と鳴り始めた。皆川のデスクの方角だった。皆川の肩がびくりと跳ねた。
「……あ、電話」
「皆川さん、待ってください」
「すみません、出ないと」
 皆川は湯呑みを流しに置くと、逃げるように給湯室の入り口へ向かった。だが扉のところで、一度だけ足を止めた。振り返った顔は、泣き出す寸前のように歪んでいた。
「黒瀬さん……ごめんなさい。私、本当は」
「皆川さん」
「……何でもないです。すみません」
 結局、いつもと同じ言葉だった。皆川は逃げるように廊下へ出ていき、電話の音が止んだ。誰かが代わりに取ったのか、皆川自身が取ったのか、黒瀬には分からなかった。
 残されたのは、流しに置かれたままの空の湯呑みと、黒瀬の手の中でとうに冷めた紙コップだけだった。
 黒瀬は、その場にしばらく立ち尽くしていた。皆川は、榊原とは違った。増田とも違った。皆川だけは、黒瀬が正しいと、はっきり言葉にしてくれた。榊原の名を出し、部長の名を出し、あと少しで、何かもっと具体的なことを話そうとしていた。
 あと少しだった。
 だが、あと少しのところで、皆川は言葉を呑み込んだ。電話が鳴ったからではない。電話は、ただのきっかけに過ぎない。皆川はきっと、あの一瞬に、自分がこれから口にしようとしていることの重さに、自分で気づいてしまったのだ。榊原の名を出すこと、部長の言葉を伝えること――それを黒瀬に話してしまえば、もう後には戻れない。
 皆川は、その一線の手前で、足を止めた。
 黒瀬は紙コップの中身をそっと流しに空けた。ぬるくなったコーヒーが、排水口に音もなく吸い込まれていく。
 榊原には、はっきりと切り捨てられた。増田には、悪意のないまま距離を置かれた。そして今、皆川には――誰よりも味方でありたいと願っていたはずの皆川にさえ、最後の一言の手前で、置いていかれた。
 誰も、黒瀬を憎んではいない。誰も、はっきりと敵に回ったわけではない。それなのに、気づけば黒瀬の周りには、話しかける相手も、頼れる相手も、何一つ残っていなかった。
 空になった給湯室の白い壁を見つめながら、黒瀬は、自分がとうとう完全に一人になったのだということを、静かに理解した。
 声を上げるような感覚ではなかった。ただ、体の中心から何かがゆっくりと抜け落ちていくような、そんな感覚だった。
 午後の伝票整理の続きが、まだ机の上に積まれたままだった。黒瀬は、その山を思い出しながら、給湯室を出た。フロアの空気は、いつもと変わらず動いていた。誰もが忙しそうに、誰かと言葉を交わし、電話に出て、コピー機の前で立ち話をしていた。
 その全員の中に、黒瀬の居場所だけが、静かに存在しなくなっていた。
=== 7 · 身に覚えのない署名 ===
会議室に呼ばれたのは、始業から一時間も経たない朝だった。
「黒瀬くん、ちょっといいかな」
 榊原はいつもの調子でそう言った。親しみを装った声だったが、黒瀬はその声の温度が、給湯室で皆川と話したあの日から、少しも変わっていないことに気づいていた。変わらないことが、かえって不自然だった。
 小会議室ではなく、フロアの奥にある大会議室だった。長机の向こうに、神谷部長、見覚えのない女性、見覚えのない男が座っていた。黒瀬が入ると、女性の方が名乗った。
「コンプライアンス室の都築です」
 抑揚のない声だった。隣の男は名乗らず、ただ手元のファイルを整えていた。後で人事の氏家だと知らされることになる。
 黒瀬は勧められた席に座った。榊原は黒瀬の斜め向かい、神谷たちと同じ側に腰を下ろした。その位置取りだけで、この場が何であるかは分かった。
 都築が一枚の書類を机の上に滑らせた。
「まず、これを見ていただけますか」
 黒瀬はそれを手に取った。単価変更申請の履歴を印字したものだった。日付、取引先名、変更前後の単価。見覚えのある数字が並んでいた。自分が半年かけて洗い出し、榊原に渡した資料と、体裁がよく似ていた。
 だが、決裁欄の名前が違った。
 承認者:榊原。申請者:黒瀬亮。
 東雲商会、ダイトウ物産、他数社。すべての行に、同じ二つの名前が並んでいた。黒瀬は、その「申請者」の欄に自分の名があることの意味を、一瞬うまく飲み込めなかった。
「……これは」
「君が経理システムに入力した申請履歴だ」榊原が静かに言った。「単価の変更を申請したのは、君になっている」
「私は、申請なんてしていません」
「システムのログにはそう出ている」都築が事務的に言葉を継いだ。「あなたのIDでログインし、あなたの承認コードで申請された記録です」
 黒瀬は書類を見つめたまま、しばらく声が出なかった。指先が、紙の端をわずかに冷たく感じていた。
 自分が半年前、榊原に渡したのは「異常を発見した」という報告だった。それがいつの間にか、システムの記録の上では「自分が異常を作り出した」という形に変わっていた。誰が、いつ、どうやってこの記録を作ったのか。黒瀬にはその手順が分からなかった。分からないということ自体が、恐ろしかった。
「課長」黒瀬は榊原を見た。「これは、私が課長に相談した資料と、同じものです。私が見つけたものです。作ったものではありません」
「黒瀬くん」榊原は表情を変えなかった。「気持ちは分かるよ。だが記録がこうなっている以上、私にも、君を庇いきれる立場じゃない」
「庇う、庇わないの話ではないでしょう。事実を見てください」
「事実は、そこに出ている数字です」都築が遮った。「感情の話は、この場では扱いません」
 その声には、これまでの都築の口調から一片もぶれがなかった。書類を渡すときも、記録を読み上げるときも、都築はずっとこの温度のまま話していた。まるで最初から、感情の言葉を持ち合わせていないかのようだった。
 神谷がそこで初めて口を開いた。
「榊原くんからは、以前から報告を受けていた。経理で、単独で妙な調べ物をしている人間がいると。今回、それが具体的な形で裏付けられた、ということだ」
 黒瀬は、神谷の言う「以前から」という言葉に、静かに焦点を合わせた。第五話の時点で流れていた出所不明の噂の出どころが、今、目の前で本人の口から語られていた。榊原が、あの時すでに、こうなることを見越して手を回していたのだと、黒瀬はようやく理解した。理解しても、何も変わらなかった。神谷の口ぶりは、まるで自分がその報告の中身を一度でも確かめたことがあるかのようだったが、その実、彼は榊原の言葉をそのまま右から左へ受け取っているだけなのだと、黒瀬にはなぜか分かった。
「増田さんと、皆川さんにも話は聞いています」都築が続けた。「同期の増田さんは、あなたが最近、周囲に取引先の単価の話をしていたと。後輩の皆川さんは……」
 都築はそこで一瞬、手元の紙に視線を落とした。
「皆川さんは、詳しいことは分からない、と」
 黒瀬は、皆川の顔を思い浮かべた。給湯室で、榊原の名を、神谷部長の名を、確かに口にした皆川。「あと少し」のところで言葉を呑み込んだ皆川。その「あと少し」が、この場では最初からなかったことになっていた。皆川を責める気には、なぜかならなかった。ただ、あの日の沈黙の続きを、今また別の場所で見ているだけだった。
「私は」黒瀬は言葉を選んだ。「取引先ごとの単価の異常に気づいて、それを、まとめて課長に報告しました。それだけです。そのために資料を作りました。それを、悪用されているとしか思えません」
「悪用、という言葉を使うんだね」榊原が眉をわずかに動かした。「誰が、何のために」
 黒瀬は答えられなかった。答えを持っていなかったからではない。答えを口にしたところで、この部屋の誰も、それを受け取るつもりがないことが、もう分かっていたからだった。
 都築が別のファイルを開いた。
「会社としては、今回の件を社内調査の結果として処理します。単価変更の実行と、その隠蔽を目的とした独断の調査活動があったと判断し、黒瀬亮さんについては、本日付で懲戒解雇という判断になります」
 言葉は、驚くほど平坦だった。
「あわせて、被害額の規模を鑑み、刑事告訴も検討しています。詳細は追って弁護士から連絡が行きます」
 氏家が黒瀬の前に一枚の紙を差し出した。退職手続きに関する説明書きだった。黒瀬はそれを受け取ったが、文字が目に入ってこなかった。
「私物は、後ほど私がまとめて自宅に送ります」氏家は書類の角を整える手を止めずに続けた。抑揚のない声だった。「本日、荷物をお持ち帰りいただく必要はありません。入館証はここで回収させていただきます。以上、よろしいでしょうか」
 氏家は、それだけを告げると、あとは書類の角を揃えることに意識を戻したようだった。黒瀬がどんな顔をしているかに、関心を払う気配はなかった。この人にとって、これはただの手続きの一項目に過ぎないのだと、黒瀬は妙に冷静な部分で理解した。
 黒瀬は、首から下げていた入館証を外した。留め具の感触だけが、やけにはっきりしていた。それを机の上に置く手の動きを、自分でもどこか他人事のように眺めていた。
「課長」
 黒瀬はもう一度、榊原を見た。榊原は目を合わせなかった。書類の端を、指先で整えるふりをしていた。
「……私だって、君の味方でいたかったさ」榊原は視線を落としたまま言った。「だが、こればかりは、私にもどうにもできない」
 その言葉の温度のなさに、黒瀬は不思議と怒りを感じなかった。ただ、これまでずっと感じてきた小さな違和感の答え合わせを、たった今している気がした。榊原はきっと最初から、こうなったときに自分がどう振る舞うかを、もっと前から知っていたのだろう。
「以上です」都築がファイルを閉じた。「何か、ご質問は」
 黒瀬は、質問という言葉の意味を、うまく組み立てられなかった。会議室の窓の外では、いつも通りの朝の光が、フロアのブラインド越しに斜めに差し込んでいた。誰かの電話が鳴り、誰かがそれに応じている声が、壁越しにかすかに届いていた。
 自分の知っている日常が、まだこの部屋のすぐ外側で続いていることが、黒瀬にはひどく遠いことのように感じられた。
「……いいえ、ありません」
 黒瀬はそれだけ言って、席を立った。
 廊下に出ると、自分のデスクのあった方角から、増田がこちらを見ているのが目に入った。目が合うと、増田はすぐに視線を逸らし、何か言いかけるように口を開いたが、結局何も言わずに背を向けた。もう少し先、給湯室の入り口に近いところで、皆川が立っていた。皆川は動かなかった。ただ、俯いたまま、黒瀬が通り過ぎるのを、その場でじっと待っているようだった。
 黒瀬は、皆川の前で足を止めなかった。止めても、この前と同じように、何も出てこないことが分かっていたからだった。
 誰も、はっきりと黒瀬を憎んではいなかった。榊原は保身のために。増田は空気に流されて。皆川は恐怖に負けて。それぞれが、それぞれの弱さのままに、黒瀬から一歩ずつ退いていっただけだった。悪意という悪意は、どこにも見当たらなかった。それなのに、気づけば黒瀬の周りには、誰一人残っていなかった。
 エレベーターの扉が閉まる直前、黒瀬は最後にもう一度フロアを振り返った。フロアはいつも通りに動いていた。電話が鳴り、誰かが立ち上がり、コピー機が紙を吐き出す音がしていた。その中に、黒瀬の居場所だけが、もう跡形もなく消えていた。
 扉が閉まった。
 黒瀬の中で、何かが完全に静かになった。声を上げるべき瞬間だったのかもしれない。だが、上げるべき声そのものが、もうどこにも見当たらなかった。
=== 8 · 灯の消える部屋 ===
カーテンを閉めたままの部屋には、朝も夜も同じ薄闇が満ちていた。
 黒瀬は、床に座り込んだまま、壁際に積まれた段ボールを眺めていた。引っ越しのための荷物ではない。会社から送られてきた私物だった。氏家という人事の男が言った「私が、後ほどまとめて自宅に送ります」という言葉は、その通りに実行された。約束だけは、きちんと守られる。そのことが、今の黒瀬にはひどく皮肉に思えた。
 箱を開ける気力は湧かなかった。中に何が入っているかは分かっている。デスクに置いていたペン、マグカップ、書類の写し。数字を疑うのと同じ慎重さで、自分の生活のあらゆる綻びを見つめてきたはずの自分が、今はその段ボールの蓋一枚を持ち上げることさえできない。
 最初の数日は、まだ動けた。転職サイトに登録し、履歴書の職務経歴欄を書き直した。「懲戒解雇」という四文字をどう扱うべきか分からず、結局そのまま書いた。面接の連絡は、一件も来なかった。人事に問い合わせても、決まり文句の丁寧な断りが返ってくるだけだった。誰も理由を明言しなかったが、理由を明言しないこと自体が、もう答えだった。
 会社の代理人だという弁護士から、一度だけ電話があった。見覚えのない番号だった。出るべきか一瞬迷ったが、結局、黒瀬は指を滑らせた。
 「刑事告訴の件については、検討を継続しております。追ってご連絡します」
 用件はそれだけだった。淀みのない、事務的な声だった。黒瀬は「……分かりました」と答えた。それ以外に、言葉が出てこなかった。言うべきことは、確かにあったはずだった。数字は自分が作ったものではない。承認欄の判は榊原のものだった。そう言いたかった。だが、言葉にした瞬間に、それが誰にも届かないことを、もう知りすぎていた。
 電話が切れると、部屋には元の静寂が戻った。黒瀬は、スマートフォンをしばらく耳から離せなかった。通話終了の表示が出た画面を、ただ見つめていた。指先が、かすかに震えていた。寒さのせいではないと分かっていた。震えを止めようと、もう片方の手で握り込んでも、震えは指の先だけに残り続けた。しばらくして、画面は何も操作されないまま暗くなった。黒瀬は、それをただ見ていた。
 スマートフォンの画面には、増田からの連絡は一件もなかった。皆川からも。黒瀬は、それを恨む気にはならなかった。ただ、履歴の一覧を眺めるたびに、そこにあるはずだった何かが、今はもう完全に空白になっていることだけを、確認するように見ていた。
 夜、換気口の音とわずかな雨音だけが聞こえる部屋で、黒瀬は榊原の顔を思い出した。「私だって、君の味方でいたかったさ」という声の温度のなさを。増田の「あんまり広げるな」という、悪意のない釘を。皆川の「……何でもないです」という、あと少しで届きそうだった言葉の途切れ方を。
 かつては、それぞれの弱さを一つひとつ数え上げることができた。榊原は保身のために。増田は空気に流されて。皆川は恐怖に負けて。そうやって整理することで、まだ自分はどこかに立っていられた。だが今は、その整理さえ、もうできなかった。三人の顔を思い浮かべても、そこに理由をつける気力が、自分の中のどこにも残っていない。怒りも、失望も、何かを判別するだけの力を必要とする。その力そのものが、今の黒瀬にはもう残っていなかった。ただ、顔と声だけが、意味を失ったまま頭の中に浮かんでは、そのまま静かに消えていった。
 冷蔵庫の中身は、いつの間にか空になっていた。買い物に出る気力もなかった。時間の感覚は、少しずつ薄れていった。窓の外の光の色で、朝か夕方かを判断する日が続いた。カレンダーの数字は、途中から意味を持たなくなった。
 ある夜、黒瀬は久しぶりに立ち上がり、部屋の電気をつけた。明かりの下で、段ボールの一つを開けた。中から、使い古したペンと、名刺入れが出てきた。名刺入れの中には、まだ何枚か自分の名刺が残っていた。「明和商事 経理部 黒瀬亮」。もう、その肩書きを名乗る自分は存在しない。
 黒瀬は、名刺を一枚、指先でつまんで眺めた。几帳面に整えられた文字を、最後まで確認するように、じっと見つめた。仮の話ではなかった。もう、確定した事実だった。自分は、誠実であろうとしただけだった。数字を疑い、報告し、正しい手順を踏もうとしただけだった。それだけのことで、すべてを失った。
 答えを探すのは、もうやめようと思った。榊原に、増田に、皆川に、いつか説明してもらう機会が来ることは、ないのだと分かっていた。分かっているのに、指先の先まで冷えていくような感覚だけが、いつまでも消えなかった。
 名刺を、そっと段ボールの上に置いた。もう、十分だった。誰に向けて言うでもなく、その言葉だけが、黒瀬の中で静かに定まった。それ以上の説明も、意味も、もう必要なかった。何かを決めた、という感覚さえなかった。ただ、長い間かけて少しずつ削られてきた何かが、ようやく音もなく尽きた、というだけのことだった。
 黒瀬は立ち上がり、カーテンの隙間からわずかに漏れる外の明かりに近づいた。指先で一度だけ布に触れ、それ以上開けることはしなかった。窓の外には、いつまでも変わらない街の光が、遠く小さく灯っているはずだった。もう、それを確かめる必要はなかった。見るべきものは、外側にはもう何もない。
 部屋の空気は冷たかった。息を吸うたびに、その冷たさが肺の底まで届いた。心臓が打つ音だけが、やけにはっきりと聞こえた。焦りはなかった。恐怖もなかった。長く握り続けていた何かから、指の力を一本ずつ、静かに外していくような感覚だけがあった。
 黒瀬は、部屋の明かりを消した。
 暗闇の中で、黒瀬はしばらく、そのまま動かなかった。時間の感覚は、もう意味を持っていなかった。換気口の音も、雨音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。ただ、自分の呼吸だけが、少しずつ間隔を空けていくのが分かった。それを止めようとは、思わなかった。
 意識が薄れていく最後の瞬間、黒瀬は奇妙なほど静かだった。涙も、後悔の言葉も、出てこなかった。悲しむべき瞬間のはずなのに、ただ、長く保っていた何かがようやく緩んだという、乾いた安堵だけがあった。それすら、感情と呼べるほどのものではなかった。
 暗闇が、少しずつ深くなっていった。輪郭を失った意識の底で、黒瀬という名前も、明和商事という言葉も、榊原の声も、皆川の沈黙も、すべてが薄い霧のように溶けていった。何も考えられなくなり、何も感じられなくなり、それでいい、と誰かが――あるいは自分自身が――そう思った気がした。
 そのまま、何もかもが闇に沈んでいく――と思った、その刹那だった。
 途方もなく巨大な何かの気配が、闇の奥からやってきた。それは音ではなく、形でもなかった。ただ、途方もなく大きな「輪」のようなものが、ゆっくりと自分を包み込んでいくという感覚だけがあった。説明のつく言葉を、黒瀬は一つも持っていなかった。恐怖でも、安らぎでもない。ただ、確かに、何かが巡っている――そんな気配だった。
 次の瞬間、赤子の泣き声が響いた。
 それは自分の声だった。
 黒瀬だったものは、暗闇の中で、初めて目を開いた。
=== 9 · 泣き声、それから飛び飛びの記憶 ===
赤子の泣き声が、暗闇に響いていた。
 それが自分の声だと気づくまでに、ずいぶん長い時間がかかった気がした。実際には、瞬きひとつほどの間だったのかもしれない。時間の感覚そのものが、まだどこにも繋がっていなかった。
 視界は白く滲み、輪郭というものを持たなかった。ただ光と影の濃淡だけが、ぼんやりと揺れている。耳に届く音も、意味を結ばない。低い声、高い声、布の擦れる音。それらすべてが、まだ「言葉」にも「音」にも分類される前の、ただの震動として体の奥を通り過ぎていった。
 泣くことしかできなかった。喉を震わせ、肺いっぱいに空気を吸い込み、また泣く。それ以外に、この体でできることは何もなかった。指を握ることも、まだ思い通りにはならない。
 ――もう一度、生きている。
 その感覚だけが、どこか遠くの水底からゆっくりと浮かび上がってくるように、意識の隅にあった。名前も、勤め先も、数字の羅列も、誰かの顔も、まだ何ひとつ形を持って戻ってきてはいない。ただ「終わったはずだった」という感触と、「終わっていなかった」という現実だけが、赤子の泣き声の合間に、微かな違和感として横たわっていた。
 闇に包まれる直前に見た、あの途方もない「輪」のようなものの気配を、思い出そうとした。だが、それは指の間から零れる水のように、掴もうとするたびに形を失っていく。恐怖でも、安堵でもなかった、あの感覚。ただ確かに何かが巡っていた、というだけの記憶。それは長く尾を引くこともなく、新しい体の重さと熱の中に、静かに溶けて消えていった。
 誰かの太い腕が、体を抱き上げた。
「……ああ。よく泣く」
 低く、掠れた声だった。感情の起伏の乏しい、それでいてどこか安堵の滲む声。この声を、後になって「父」と呼ぶことになる。ガレンという名を、まだ知らない。
「そう? わたしにはちょうどいいと思うけど」
 もう一つの声が答えた。今度は柔らかく、疲れの中にも張りのある声だった。この声が「母」だと分かるのも、もっと後のことになる。ミラという名も、まだ知らない。
 抱き上げられた腕の中で、泣き声が少しずつ収まっていく。体温が伝わってくる。それだけのことに、体の奥の何かがわずかに緩んだ。理由は説明できない。ただ、温かかった。
 その日から、時間は飛び飛びに繋がっていった。
 次に覚えているのは、木の梁が剥き出しになった天井を見上げていたことだった。狭い部屋。煙の匂い。乾いた藁の匂い。体を動かせるようになっていた。寝返りを打とうとして、うまくいかず、それでも何度か繰り返すうちに、少しずつ体の使い方を思い出していくような感覚があった。
 覚える、というより、思い出す、に近かった。歩き方も、言葉も、この体にとっては初めてのはずなのに、どこかでもう一度なぞっているような、奇妙な既視感があった。
「ケイン」
 自分がそう呼ばれていることに気づいたのは、もう少し後のことだ。低い声の男――父――が、薪を割る手を止めて、こちらを見ながらその名を呼んだ。ケイン。それが自分の名前らしい、と理解するまでに、また幾つかの季節が過ぎた。
 言葉を覚えるのは、思ったより早かった。母がゆっくりと話しかける言葉を、体の奥のどこかが先回りして理解している感覚があった。だが声に出す方は、思うようにいかなかった。喉と舌がこの体の年齢に合わせて動くだけで、言いたいことの何分の一も形にならない。
 ある日、指先を薪の角にぶつけた。痛みはさほどでもなかったが、それを伝えようとして、口を開いた途端に言葉が詰まった。「いた」の二文字さえ、うまく音にならない。喉の奥で何かがつかえたまま、代わりに情けない呻き声だけが漏れた。
 母のミラは、すぐに手を止めてこちらを見た。急かすことはしなかった。ただ、目線を合わせるように屈み込み、じっと待った。ケインが何度か口を動かし、それでも言葉が出ず、しまいに黙り込んでしまうと、ミラは小さく笑って指先を取り、傷のない方まで確かめてから、そっと息を吹きかけた。
「――いいのよ、急がなくても。痛かったのね」
 言葉にできなかったことを、彼女は言葉にしないまま分かってくれた。もどかしさが、その分だけ余計に胸の奥に沈んだ。伝えられるはずのことを伝えられない体。それは前世で数字と報告書に囲まれて生きていた頃には、想像したこともない種類の不自由さだった。
 もどかしさに、時折、無言のまま黙り込むことがあった。母のミラは、そのたびに困ったように眉を寄せた。
「この子は、あまり泣かないし、あまり喋らないし……何を考えてるのかしらねえ」
 そう言いながらも、母の手はいつも優しかった。困り顔のまま、最後には決まってケインの頭を一度撫でてから、また家事に戻っていく。それが繰り返されるうちに、ケインは、うまく言葉にできなくても、この手だけは信じていいのだと、理屈ではなく体で覚えていった。
 父のガレンは、それに対して短く答えるだけだった。
「……別に。悪いことじゃない」
 それ以上、多くを語らない父だった。木こりの仕事に出ては、日が暮れる前に戻り、囲炉裏端で黙って火を見ている。話しかければ短く答えるが、自分から多くを語ることはほとんどなかった。
 ある夕暮れ、薪割り場の脇に座り込んで、斧を振るう父の背中を眺めていた日のことをよく覚えている。何度も同じ動きを繰り返す父の腕は、無駄がなく、静かだった。しばらく見ていると、ガレンはふと手を止め、割れずに残った細い枝を一本、無言でこちらに放って寄越した。
 拾い上げて眺めていると、ガレンは何も言わず、隣にあった小さな台の上にもう一本の細い枝を立てた。やってみろ、ということらしかった。ケインは真似て枝を振り下ろした。当然、まともに割れはしない。何度やっても同じだった。それでもガレンは急かさず、直させることもせず、ただ自分の斧を振るい続けた。
 日が落ちかけた頃、ようやく枝が真っ二つに割れた。声を上げるほどのことでもなかったが、顔を上げると、ガレンが手を止めてこちらを見ていた。何かを言うでもなく、ただ短く、頷いた。それだけだった。それでも、その日はいつもより長く、父の傍にいさせてもらえた気がした。不器用な優しさというものが、確かにそこにはあった。
 村の名は、後になって知った。ケーレン。王都から遠く離れた、辺境の寒村だった。
 物心がつくというのは、はっきりとした一つの瞬間ではなかった。飛び飛びだった記憶の断片が、少しずつ糸のように繋がり、やがて「今日」と「昨日」の区別がつくようになり、季節が巡ることに気づき、自分がこの村の、この家の子供であるらしいと理解していく――そういう、ゆっくりとした積み重ねだった。
 その積み重ねの中で、ケインは少しずつ、あることに気づき始めていた。
 夏の終わりのある日、井戸端で母が水を汲んでいた。桶に縄を結ぶ手を止め、ミラが顔を上げて隣家の女房――ヨルガの母、グンダに向けて軽く会釈した。ケインは母の後ろに隠れるようにして、その一部始終を見ていた。
 グンダは一瞬、口元だけで会釈を返しかけた。だが視線がミラの隣に立つケインに落ちた途端、その口元がふっと固まり、目が逸れた。会釈は最後まで形にならず、彼女は桶を持ち直すと、それ以上言葉を交わすこともなく足早に井戸端を離れていった。
 ミラは何事もなかったかのように、また縄を結ぶ手を動かした。だが、その横顔からいつもの軽口が消えていることに、ケインは幼いなりに気づいていた。
 別の日には、広場で父が薪を売っていた。買い手の中に、村の古参の長――ダグラーの姿があった。ダグラーは薪の束を検分し、値を確かめると、懐から銭を取り出してガレンの掌にそれを乗せた。丁寧な仕草だった。だが、その間、ダグラーの視線はついに一度もガレンの顔に向かなかった。銭を数える指先だけを見て、「まいど」とだけ短く言うと、踵を返してしまった。
 ガレンは何も言わなかった。ただ、銭を懐にしまいながら、その背をしばらく見送っていた。
 そういう日が、幾つも積み重なっていった。あからさまに睨まれるわけではない。声を荒げられるわけでもない。ただ、目が合った瞬間に、ふいと逸らされる視線。挨拶を返す声のわずかな硬さ。子供たちの間で、自分の家の話になると急に声が低くなる、あの空気。
 ある日、村の子供たちが遊ぶ広場の脇を通りかかったとき、ケインより幾つか年上の少年たちの輪の中から、ひそひそとした声が漏れて聞こえたことがあった。
「――あそこの家の子だって」
 誰の声かは分からなかった。振り向くと、輪の中の何人かがこちらを一瞬見て、それからすぐに顔を寄せ合って話を続けた。何が「あそこの家」なのか、まだ幼いケインには分からなかった。分からないまま、ただその一言だけが耳の奥にこびりついて残った。
 まだ幼いケインには、それが何を意味するのか分からなかった。ただ、繰り返し肌に触れるその違和感だけが、飛び飛びの記憶の合間に、小さな棘のように刺さって残っていった。
 ――何かが、違う。
 誰に問うこともできないまま、ケインはその違和感を、幼い胸の内側にそっと仕舞い込んだ。
=== 10 · 井戸端の声、輪の外 ===
井戸端に近づくと、女たちの声がふっと止んだ。
 それはいつものことだった。母のミラが桶を提げて歩き出すと、井戸を囲んでいた三人の女房――グンダと、隣家のノーラ、それにもう一人年配の女――が、それまで何かを熱心に話し込んでいたはずの口を、申し合わせたように閉じる。ケインが母の後ろから顔を出すと、なおさらだった。
「あら、ミラさん」
 ノーラが取り繕うように声をかけた。ミラは笑って会釈を返す。何を話していたのか、ケインには分からない。ただ、話の切れ端が耳に残った。
「――だから、あの家の男は……」
 それだけだった。誰の家のことかは言われなかったが、言われなくても分かるような気がした。グンダはケインの方を一度だけ見て、すぐに視線を桶の水面に落とした。会釈も、声もかけなかった。
 ケインは何も言わず、母の脚の後ろに半分隠れるようにして、縄を桶に結ぶ母の手を見ていた。まだ六つの体は、こういうとき何をすればいいのか分からない。分からないまま、ただ黙って立っていた。
 母は縄を結び終えると、桶を持ち上げ、いつもと変わらない足取りで歩き出した。何事もなかったかのように。だが井戸端を離れて少し行ったところで、ミラはふと足を止め、桶を提げたまま空を見上げた。それだけで、いつもの軽口が今日はまだ一度も出ていないことに、ケインは気づいていた。
「――行くわよ、ケイン」
 声はいつもと同じ調子に戻っていた。ケインは頷いて、母の後をついて歩いた。
 家に着くと、父のガレンが薪割り場で斧を振っていた。規則的な音が、乾いた空気の中に響いている。ケインが近づいても、ガレンは手を止めなかった。しばらくして一区切りついたところで、ようやく振り返った。
「……水、汲めたか」
「うん」
 それだけの会話だった。ガレンは頷き、また斧を持ち直した。ケインは薪の山の脇に座り、割られた木片を拾って積んでいく。手伝いというより遊びに近かったが、ガレンは何も言わず、それを咎めもしなかった。
 夕食は、パンと、少しの塩漬け肉と、母が作った芋の汁だった。三人で囲む小さな卓は、いつも静かだったが、その静けさは井戸端のそれとは違う質のものだった。ガレンが黙って汁を啜り、ミラが「今日はいい水が出たわ」と言い、ケインがそれに小さく頷く。それだけで、卓の上の空気は満ちていた。
 寝台に入る前、ミラがケインの頭を一度撫でた。
「よく食べたわね」
 何を考えているのか分からない、といつも困り顔で言う母だったが、その手だけはいつも同じ温度をしていた。ケインは目を閉じながら、その温かさと、井戸端でグンダが逸らした視線とを、なぜか同じ日の出来事として思い出していた。どちらも本当のことだった。それが、うまく飲み込めなかった。
 翌日の昼下がり、ケインは母の言いつけで、村の広場まで使いに出た。ダグラーの家に薪の代金を届ける用だった。用を終えて帰る途中、広場の隅で、数人の子供たちが石を投げ合う遊びに興じているのが見えた。
 声で分かった。ドルフの高い笑い声、ロウンの落ち着いた相槌、そしてその輪の中心にいる、体格の良い少年――ヨルガ。少し離れた木の陰に、シェラが一人立って、輪を眺めていた。
 ケインは足を止め、しばらくその様子を見ていた。楕円形の石を的の木片に当てる遊びらしい。ドルフが投げて外し、大声で悔しがる。ロウンが淡々と自分の分の石を選び、正確に的を射抜く。ヨルガが「見たか」と胸を張る。
 ケインの中で、何かが動いた。名前で呼べるほどの感情ではなかった。ただ、あの輪に入ってみたい、という小さな引力のようなものだった。前世の記憶がどこかで囁く。人と関わっても、いずれ同じことになる――そう分かっていながら、六つの体はまだそれを聞かなかった。
 ケインは石ころを一つ拾い、輪の方へ歩いていった。
 最初に気づいたのはロウンだった。値踏みするような一瞬の視線がケインを上から下まで見て、それだけで元の遊びに戻った。何も言わなかった。
 ドルフが次に気づいた。石を構えたまま、ケインの方を見て、それから輪の中の他の顔――特にヨルガの顔――をちらりと窺った。何か言おうとして、結局黙り込んだ。
 ヨルガが最後に振り返った。ケインが手にした石を見て、それから顔を見て、鼻で笑った。
「……何だよ、お前」
「一緒に、やってもいいか」
 ケインは短く言った。声は震えていなかった。ただ、いつもより少し小さかった。
 ヨルガはしばらく黙ってケインを見ていた。その目に、ただの子供のいたずら心以上の何かが浮かんだ。誰かの名前を思い出しているような、苦い顔だった。
「――あっち行けよ。お前とは、やらねえ」
 短く、それだけだった。ドルフは何も言わず、石を見つめたままだった。ロウンは既に興味を失ったように次の的を探していた。木の陰に立つシェラだけが、一瞬こちらを見た。その目に、何か言いたそうな色が浮かんだ気がした。だが、彼女の唇は開かなかった。
 輪は、ケインを含まないまま、再び石を投げる音を立て始めた。
 ケインは、拾った石を手の中で握ったまま、しばらくその場に立っていた。誰も、もう一度こちらを見なかった。
 ――そうか。
 それだけだった。悲しいとも、悔しいとも、うまく言葉にならなかった。ただ、井戸端で母に向けられた視線と、今この手の中の石の重さが、静かに重なっていくのを感じていた。
 ケインは石を放り、何も言わずに踵を返した。家までの道を、いつもより少し長く感じながら歩いた。
=== 11 · 川辺の石、道端の薪 ===
広場の方から、子供たちの歓声が風に乗って届いた。
 空はもう秋の色をしていた。頭上を渡り鳥の群れが低く鳴きながら南へ抜けていく。冬支度の薪を積む荷車の音が、あちこちの家の裏手から聞こえてくる季節だった。ケーレン村では、この時期になると誰もが無口になって手だけを動かす。寒さは、余所者にも古参にも分け隔てなく降りてくるからだ。
 ケインは薪の束を背負い直し、道の途中で足を止めた。石を投げ合う音、ヨルガの大きな笑い声、ドルフの悔しがる声――何日か前と同じ遊びが、同じ場所で続いているらしかった。輪の中に入ろうとは、もう思わなかった。あの日、拾った石を握ったまま突っ立っていた自分の姿を、まだ覚えている。
 ケインは広場を迂回して、川の方へ歩いた。母のミラに言われて、焚き付け用の細い枝を拾いに行く途中だった。
 川辺には誰もいないはずだった。だが土手を下りたところで、しゃがみ込んで小石を選んでいる背中があった。ドルフだ。
 ドルフはケインに気づくと、一瞬びくりと肩を上げた。それから、誰もいないことを確かめるように、ちらりと周りを見た。
「……ケインか」
「ああ」
 ケインは短く答えて、傍らの薪になりそうな枝を拾い始めた。ドルフはしばらく黒く光る小石を拾い集めていたが、やがて手を止め、口をへの字に曲げてケインの方を見た。
「……あのさ」
 言い出したものの、その後の言葉が続かなかった。ドルフは小石を一つ、川に向かって放った。水面に小さな輪が広がって消える。
「ヨルガが言ったこと、俺、言ってねえもん」
 それだけ言うと、また川面を見た。それから、思い出したように付け足した。
「……でも、黙ってたのは、わりーと思うけど」
 ケインは枝を拾う手を止めずに、ドルフを見た。何かを言うべきなのかもしれなかったが、うまい言葉が出てこなかった。前世の記憶が、こういう時にどうすればいいかを知っていたはずなのに、今は六つの舌がそれを追いつかせてくれない。仲間内の空気に流されるドルフの弱さには、どこか覚えのある匂いがあった。だが、それが誰の声に似ているのか、ケインはあえて考えないようにした。
「……別に」
 それだけ言った。ドルフは拍子抜けしたような顔をして、それから小さく舌打ちした。
「別にって何だよ、ケインは。……まあいいや」
 ドルフはまた小石を選び始めた。的当てに使う石らしい。ケインがそれを見ているのに気づくと、ドルフは少し得意げに一つを掲げた。
「これ、丸くていいんだぞ。ヨルガの石より飛ぶし」
 ケインは頷いた。会話というよりは、二人がそこにただ並んでいるだけの時間だった。それでも、さっきまでの広場の歓声から少し遠ざかった川の音の中で、ドルフの声には、輪の中にいた時とは違う響きがあった。誰かに聞かれることを気にしていない声だった。
 やがて、遠くから別の子供の声が近づいてきた。ヨルガの名を呼ぶ誰かの声だ。ドルフはそれを聞くと、すぐに立ち上がって石をポケットに詰め込んだ。
「――行くわ。見られたら面倒だ」
 言い訳のような早口だった。それでも、去り際にドルフは一度だけ振り返り、拾い集めた小石の中から一つ、丸くて滑らかなものを選んでケインの足元に置いた。
「……これ、やる。ケインなら、これくらい飛ばせるっしょ」
 それだけ言って、ドルフは土手を駆け上がっていった。ケインはその石を拾い上げ、手の中で確かめた。冷たく、ざらついた重みがあった。誰かに何かを与えられたのは、久しぶりのことのように感じた。輪の中では聞けないような声で名を呼ばれたことも、同じくらい久しぶりだった。
 ケインは石をポケットに入れ、拾った枝を束ねて歩き出した。
 村の外れの道は、刈り入れの終わった畑の匂いがした。荷車の脇でロウンが薪を積んでいるのに出くわしたのは、その道の途中だった。年の割に手つきが慣れていて、無駄な動きがなかった。ケインが近づいても、ロウンは顔を上げずに薪を積み続けた。
「……手伝えって言われてんのか、それ」
 先にロウンが口を開いた。
「いや。母さんに言われて枝を拾ってきた」
「そうか」
 それだけで、ロウンはまた薪に目を戻した。ケインが立ち止まっていることに気づくと、ちらりと視線を上げ、ケインの手にした細い枝の束を見た。
「その枝、すぐ燃えちまうぞ。もっと太いの拾えよ」
 損得の話だった。ケインはそれに、頷くことしかできなかった。ロウンの物言いには、数字と釣り合いだけで人を測るような、覚えのある冷たさがあった。それが誰に似ているのか、やはり考えないことにした。ロウンはケインの返事を待たず、薪を積む作業に戻る。しばらくして、ふと思い出したように言った。
「ケイン、あの時、何も言い返さなかったな。ヨルガに」
 石投げの日のことだ。ケインは黙っていた。ロウンはそれを咎めるでもなく、ただ淡々と続けた。
「別に、言い返さなくてよかったんだよ。ヨルガ、人の話聞かねーもん」
 それから、少し首を傾げてケインを見た。
「……お前、意外とわかってんの? それ」
 問いというよりは、確認のような言い方だった。ケインは何も答えなかった。答える必要があるとも思えなかった。ロウンはそれ以上何も言わず、最後の薪を荷車に積み終えると、縄を締め直した。
「……行くぞ」
 それだけ言って、ロウンは荷車を引いて歩き出した。ケインには何も頼まず、何も期待していないような後ろ姿だった。だが、去り際に一度だけ、ロウンは肩越しに言葉を投げた。
「――ケイン、しゃべらねーな。……別に、悪くねーけど」
 それが褒め言葉なのかどうか、ケインには判断がつかなかった。ただ、その言葉には、値踏みをする者が値踏みの結果を口にしたような、乾いた確かさがあった。名を呼ばれたのは一度きりだったが、その一度が、ロウンにとってはきっと精一杯の踏み込みなのだろうと、ケインはぼんやり思った。
 家に戻る道は、また広場を通ることになった。石投げの音はまだ続いていた。ケインは今度は足を止めず、広場の端をそのまま通り過ぎようとした。ヨルガの声、ドルフの悔しがる声、ロウンの静かな相槌――さっきまで川辺と道端でそれぞれ違う顔を見せていた二人が、輪の中では元の顔に戻っている。それが不思議なほど、当たり前のことのように思えた。誰しも、輪の外と輪の中とで違う顔を持っている。それだけのことだと、ケインは思うことにした。
 輪の外れの木の陰に、シェラが立っていた。前と同じ場所だった。誰とも遊ばず、誰にも声をかけられず、ただそこにいるだけの姿だった。夕暮れ前の薄い光が、彼女の輪郭だけを他の子供たちから切り離しているようだった。
 ケインは薪の束を担ぎ直し、それ以上何も期待せずに歩き続けた。輪に入ろうとも、声をかけようとも思わなかった。ただ、通り過ぎるだけだった。
 すれ違う一瞬、シェラがこちらを見た。
 それは石投げの日と同じ、ほんの一瞬の視線だった。だが今日は、何か言いたそうな色よりも先に、驚いたような、それから戸惑うような色がその目に浮かんだ。まるで、ケインの手にした薪の束や、ポケットの中の小石までを見透かそうとするような目だった。
 シェラは何も言わなかった。ケインも何も言わなかった。ただ、その一瞬だけ、二人の視線が交わって、それだけで途切れた。
 シェラはすぐに顔を輪の方へ戻し、何事もなかったかのように木の陰に立ち続けた。ケインもまた、歩き続けた。
 ――何を見ていたのだろう。
 ケインには分からなかった。ただ、その一瞬の視線の重さだけが、薪の重さとは違う形で、体のどこかに残っていた。ドルフの石にも、ロウンの一言にも似ていない重さだった。
 家に向かう道の途中、ポケットの中の小石が、歩くたびにかすかな音を立てていた。渡り鳥の声はもう遠く、冬の匂いだけが道の先にじっと待っていた。
=== 12 · 王都からの書状 ===
水桶を提げて井戸へ向かうはずが、広場の様子がいつもと違うことに、ケインはすぐ気づいた。
 母のミラに言いつけられ、空になった水桶を提げて出てきたところだった。井戸は広場の脇にある。いつもならこの道は静かで、井戸端の女たちの笑い声か、畑仕事の鍬の音くらいしか聞こえない。だが今日は、広場の中央に大人たちが十人近く集まり、誰も笑っていなかった。
 輪の中心にいるのはダグラーだった。その傍らに立つのは、この村に幾度となく通った顔――代官のオルセンだった。ひと月に一度あるかないかの巡回でしか村に姿を見せない男だが、子供でさえその顔と名は知っている。今日もまた、遠い巡回先の宿場から馬を乗り継いで来たのか、旅装の外套には道中の埃がまだこびりついていた。くたびれた革の鞄を提げたその立ち姿は、久方ぶりに現れた者特有の、村の空気にまだ馴染んでいない硬さを纏っていた。
 オルセンが手にした一枚の紙を、ダグラーが受け取って広げていた。紙には見たこともないような細かい字が並んでいて、封蝋の欠片がまだ縁にくっついている。
 ケインは輪の外れに立ち止まり、水桶の縄をぎゅっと握った。近づいていいものかどうか分からなかった。大人たちの声は低く、しかし苛立ちを含んでいた。
「――また、王都の都合か、オルセン殿。俺たちにゃ、たまったもんじゃない」
 最初に声を上げたのは、ダグラーの隣に立つ恰幅のいい男だった。ベルナーという名を、ケインは前にドルフの家で聞いたことがある気がした。
「都合、というよりは」オルセンが、疲れた声で言った。「命令だ、ベルナー殿。私に文句を言われても困る」
「だが、去年もそう言って、俺たちの村から四人も持っていったばかりじゃないか」
「国境の情勢が悪化している。ガルドシアが押している、とだけ聞いている。それ以上は、私も詳しくは知らん」
 オルセンはそう言って、肩をすくめた。厄介事を早く終わらせたいという素振りが、その動きにありありと出ていた。ダグラーは紙をじっと見つめたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、静かな声で言った。
「……まだ、正式な召集ではない、ということだな。儂の耳にも、まだそこまでは届いておらん」
「今のところは、な。次の巡回で名簿を作りに来る、という予告状だ。だが、正直に言えば」オルセンは声を落とした。「今回は、これまでより広く取ることになるだろう。年齢の下限を、下げるという話も聞いている」
 広場がざわついた。誰かが小さく舌打ちをする音、誰かが息を呑む音。ケインの近くにいた年配の女――村ではコルダという名で呼ばれていたはずだ――が、両手で口元を覆った。その目に浮かんだ色を、ケインはうまく言葉にできなかった。ただ、恐ろしいものを見たときの顔に、少し似ていると思った。
「この村から、いったい何人出せというんだ」ベルナーが声を荒げた。「若い衆はもう畑にも山にも、俺たちの村には足りていないんだぞ。これ以上減らされたら、冬を越せる村がなくなる」
「私に怒鳴られても」オルセンはうんざりした顔を隠さずに言った。「決めるのは王都だ。ここで喚いたところで、何も変わらん」
 ダグラーが片手を上げ、ベルナーを制した。表向きは穏やかな仕草だったが、その手つきには有無を言わせない重みがあった。
「――落ち着け、ベルナー。今、ここで騒いでも、村の秩序が乱れるだけだ。仕方あるまい」
 ベルナーは一瞬なお何か言いたげに口を開きかけたが、ダグラーの目を見て、結局唇を引き結んだ。
「……分かった」
 それだけ呟いて、太い腕を組み直す。声を荒げた直後の男が、案外あっさりと引き下がる様子を、ケインは少し不思議な気持ちで見ていた。
 ダグラーは紙を丁寧に畳み直し、懐にしまった。それから、集まった村人たちを見回した。その目は、誰かを値踏みするような光を帯びていた。
「誰の家から出すか。それは、これから儂ら古参の間で話し合う。今日のところは、この話が来たということだけを、皆に知っておいてもらいたい」
「話し合う、というのはつまり」コルダが震える声で言った。両手はまだ口元に添えられたままだった。「私らのような家から先に、ということかい」
 ダグラーは答えなかった。答えないことが、答えのようなものだった。コルダはそれ以上何も言わず、ただ唇を強く結んで俯いた。
 ケインは輪の外から、その様子をじっと見ていた。大人たちの言葉の半分も、正確には分からなかった。だが、何か大きなものが、村の外側からゆっくりと迫ってきているらしいことだけは、肌で感じ取れた。それは冬支度の寒さとは違う、もっと重たい種類の気配だった。
 輪の端に、ガレンの姿があった。
 ケインは父の姿を見つけて、少し驚いた。普段、ガレンはこうした村の寄合には近づかない。古参たちの視線が、いつも父にだけ違う色を帯びることを、ケインは幼いなりに知っていた。
 だが今日、ガレンはそこにいた。木こりの仕事の途中だったのか、肩に斧を担いだまま、少し離れた場所に立っていた。誰かに呼ばれたのか、それともただ通りかかっただけなのか、ケインには分からなかった。
「――ガレン」
 ダグラーがふと、その名を呼んだ。広場の空気が、わずかに変わった。何人かの視線が一斉にガレンへ向く。ベルナーの目にも、コルダの目にも、値踏みするような色が浮かんだ。
 ガレンは何も言わず、ただダグラーを見返した。
「お前は、国境の戦を知っている数少ない一人だ」ダグラーは静かに言った。「あの砦での話は、村の誰も詳しくは知らん。儂もだ。だが――お前だけは、実際に見てきた」
 広場が静まり返った。誰もが、ガレンの返答を待っているようだった。ケインは知らず知らず、水桶の縄を強く握りしめていた。
「……」
 ガレンは長く黙っていた。その沈黙の間、周囲の視線がじりじりと父に集まっていくのを、ケインは感じた。それは同情でも、労いでもなかった。噂と好奇心の混じった、居心地の悪い視線だった。
「――知らん」
 ようやくガレンが口を開いた。それだけだった。多くを語らない父らしい、短い言葉。だが、その声にはいつもと違う硬さがあった。
「知らん、というのは」オルセンが眉を上げた。
「戦のことは、話すことはない」ガレンはそれだけ繰り返した。「徴兵の話は、王都が決めることだ。俺には関わりがない」
 徴兵。
 その言葉が、大人たちの口から幾つもこぼれ落ちた。誰かが呟き、誰かが繰り返し、コルダがまた小さく息を呑んだ。言葉そのものの意味を、ケインはまだ十分には知らなかった。ただ、その響きが広場の空気を一段と重くしたことだけは分かった。
 ケインは、父の横顔を見た。
 いつもと変わらない、寡黙な表情のはずだった。だが、頬の辺り、目の縁のあたりに、ほんのわずかな強張りがあった。見慣れた父の顔に、初めて見る種類の硬さが差していた。それは怒りでも悲しみでもない、もっと奥に沈んだ何かのように、ケインには見えた。
 斧を担いだまま、ガレンは踵を返し、それ以上何も言わずに広場を後にした。誰もその背中を呼び止めなかった。
 輪が緩やかに崩れ、村人たちが三々五々散り始めた頃、ケインは水桶を提げ直して井戸へ向かおうとした。そのとき、視界の端で誰かの視線が動いた。ヨルガの母、グンダだった。彼女は最後までガレンの背中を目で追い、それからその視線をそのまま、隣に立つケインへと移した。
 まるで父の代わりに息子を測るような、値踏みの色を帯びた一瞬だった。
「……あの家の子だったね」
 グンダは誰に聞かせるつもりもなさそうな低さで、そう呟いた。それは咎めるでも憐れむでもない、ただ事実を確かめるだけの声だった。ケインはその視線を正面から受けたが、何を言えばいいのか分からず、結局何も言わなかった。グンダはすぐに興味を失ったように顔を逸らし、井戸端の女たちの輪へ戻っていった。
 ケインは、水桶の縄のことを思い出し、まだ空のままの井戸へと足を向けた。広場の話し声はまだ続いていたが、その内容はもう耳に入ってこなかった。ただ、父の強張った横顔と、グンダの値踏みするような一瞥と、「徴兵」というひとつの言葉だけが、冷たい小石のようにケインの胸の底に沈んでいった。
 水桶の縄を、ケインはまだきつく握りしめていた。
=== 13 · 見捨てた男の息子 ===
「お前の親父、仲間を見捨てたんだってな」
 ヨルガの声が、広場に響いた。
 ケインは薪の束を抱えて、村の共用倉庫へ届ける途中だった。腕の中の薪は重く、縄の食い込む感触が二の腕にじんと残っていた。振り返る前から、その声が誰のものかは分かっていた。
 広場の端、井戸の傍らに、ヨルガが立っていた。いつものように仲間を連れている。ドルフと、ロウンだった。二人とも、遊びの途中でそこに居合わせたらしい。ドルフの手には木の棒が握られたままで、地面には石で描いた的の跡が残っていた。ほかにも、近くの家の子供たち――ペトラとトビアスが、少し離れた場所で足を止め、遠巻きにこちらを見ていた。ペトラは何も言わず、両手を胸の前で握り合わせている。何が起きるのか、様子を窺っている顔だった。
 ケインは薪を抱えたまま、足を止めた。何も言わなかった。
「聞こえなかったか?」ヨルガが繰り返した。「お前の親父だよ。国境の砦で、仲間を全員見捨てて、自分だけ逃げ帰ってきたんだろ」
 広場の空気が、一段と重くなった気がした。数日前、この同じ場所に大人たちが集まり、王都からの徴兵の話をしていたことを、ケインは思い出した。あのとき、ダグラーがガレンを名指しし、国境の戦を知る者として問い詰めた。あの日以来、村の空気は目に見えて変わった。大人たちの噂は、子供たちの間にも、いつのまにか流れ込んでいたらしい。
「うちの叔父さんは」ヨルガの声が、わずかに震えを帯びた。「国境の戦で死んだんだ。お前の親父と、同じ砦にいた」
 ケインは黙っていた。何と言えばいいのか、分からなかった。父が何をしたのか、本当のところをケイン自身も知らない。ガレンは自分からその話をしたことがない。ただ、あの日の広場で見た父の横顔――頬のあたりに浮かんだ、あの見慣れない強張りだけを、ケインは覚えていた。
「うちの母ちゃんが言ってた」ヨルガは続けた。「あの砦にいたのは、お前の親父だけが生き残ったって。ほかの兵隊は、みんな死んだのに。なんでお前の親父だけ、生きて帰ってこれたんだよ」
 その問いに、答えはなかった。ケインにも、ヨルガにも。
「……知らない」
 ようやく、ケインは口を開いた。短い言葉だった。それ以上、続ける言葉が見つからなかった。
「知らないって、何だよそれ」ヨルガが鼻を鳴らした。「自分の親父のことだろうが」
 ドルフが、木の棒を握ったまま、視線を地面に落とした。何か言いたげに口を開きかけて、しかし言葉にならなかった。ヨルガの方が年上で、いつも輪の中心にいる。結局、ドルフは何も言わなかった。ただ、居心地悪そうに足元の石を蹴っただけだった。
 ロウンは、少し離れた場所から、この一部始終を眺めていた。表情はほとんど動かなかった。腕を組んで、ただじっと見ている。面白いとも、嫌だとも思っていないような、平たい顔だった。
「見捨てたんなら、見捨てたって言えばいいだろ」ヨルガが、ケインの方へ一歩詰め寄った。「そういう血筋なんだよ、お前の家は。だから村のみんな、お前らのこと避けてんだ」
 ケインは薪を抱えたまま、後ろに下がらなかった。ただ、ヨルガの目を、正面から見返した。
 言い返したいことは、いっぱいあった。父ちゃんはそんな人じゃない。何にも知らないくせに。でも、その言葉が喉のところで固まって、出てこなかった。父ちゃんが本当は何をしたのか、ケイン自身、何も聞いたことがない。知らないのに庇ったら、余計に嘘っぽく聞こえる気がした。うまく言えないもどかしさだけが、胸の中でぐるぐる回っていた。
 それに――何を言っても、多分ヨルガには届かない。そんな感じが、なんとなくあった。うまく言葉にはできないけれど、前にもこんな気持ちになったことがある気がした。いつだったか、どこでだったかは思い出せない。ただ、諦めみたいなものが喉の奥にひっかかって、それ以上何も出てこなかった。
 だから、ケインはただ黙って、睨み返した。
 その沈黙が、ヨルガには気に食わなかったらしい。
「……何だよ、その目」ヨルガの声が、苛立ちを帯びた。「言い返せねえなら、認めたようなもんだろうが」
 ヨルガが、薪を抱えたケインの肩を、乱暴に押した。不意を突かれ、ケインは体勢を崩し、抱えていた薪の一部が地面に転がり落ちた。乾いた音が広場に響いた。ペトラが小さく息を呑み、半歩後ずさった。
「――おい、ヨルガ」ドルフが、思わずといった様子で声を上げた。だが、それ以上は続かなかった。止めるでもなく、味方するでもない、宙ぶらりんな声だった。
 ケインは崩れかけた体勢を立て直すと、地面に落ちた薪には目もくれず、ヨルガをまっすぐに見た。突き飛ばされた痛みよりも、胸の奥がかっと熱くなって、それからすっと冷たくなっていく感じの方が強かった。
「……なんとか言えよ」
 ヨルガが、もう一度、今度は両手でケインの胸ぐらに近い場所を掴んだ。ケインも、反射的にその手首を掴み返した。振り払うためではなく、ただ、これ以上押し込まれないための力だった。
 二人の体が、ぐらりと押し合った。薪の残りが地面に散らばり、トビアスが「ヨルガ、やめとけよ」と、遠くから半端な声を上げたが、それ以上踏み込む勇気はないらしく、その場に立ち尽くしたままだった。ドルフは棒を握ったまま立ち尽くし、ロウンは腕を組んだまま、こちらを見ているだけだった。誰も、間に入ろうとはしなかった。
 押し合ったまま、二人はそのまま倒れそうになり、かろうじて足を踏ん張った。ヨルガの息が荒くなっていく。ケインの方は、声も出さず、ただ相手の目を見据えたままだった。悔しいような、情けないような、ぐちゃぐちゃした気持ちが、胸の中いっぱいに詰まっていた。
 どちらかが手を放せば、あるいはそのまま取っ組み合いになっていたかもしれない。だが、そうなる寸前、遠くから大人の怒鳴り声が響いた。
「――こら! そこで何をしている!」
 薪を届けに来た村の男の一人だった。その声に、ヨルガが咄嗟に手を離した。ケインもまた、握っていた手首を放した。二人は睨み合ったまま、一歩ずつ離れた。
「……覚えとけよ」
 ヨルガはそれだけ吐き捨てると、踵を返し、仲間を促すようにドルフとロウンの方を振り返った。ドルフは気まずげにケインを一瞥し、そのままヨルガについていった。ロウンは最後にもう一度だけケインの方を見たが、何も言わず、無言でその場を離れた。
 残されたケインは、散らばった薪を一本ずつ拾い集めた。手のひらに、木の皮のざらついた感触が残った。胸の内では、ヨルガの言葉が、冷たい石のようにいつまでも沈んだままだった。
――仲間を見捨てた。
 その言葉の真偽を、ケインはまだ知らない。父の口から聞いたことは一度もなかった。だが、あの日の広場で見た、父の強張った横顔だけは、はっきりと覚えていた。もし本当のことを知る日が来るとしたら――それは、父自身の口からしか、語られることはないのだろう。
 薪を拾い終え、ケインは倉庫へと足を向けた。広場には、まだ何人かの子供たちの視線が残っていた。ペトラは相変わらず口を閉ざしたまま、トビアスもばつが悪そうに目をそらした。誰も、何も言わなかった。
 ヨルガの目には、まだ怒りが燻っていた。あの目は、今日だけでは消えない。むしろ、噂が広場に流れ込んだ分だけ、これから先も繰り返し向けられるだろう――そんな嫌な予感が、拾い直した薪の重みよりも重く、ケインの中に沈んでいった。
 次はこうはいかない。何かが変わる前に、そう思わせる何かが、まだこの村には燻っている。
=== 14 · 拳の置き場所 ===
広場を離れてからも、ドルフはヨルガの背中を見ながら、拳を握ったり開いたりしていた。
 汗ばんだ手のひらに、木の棒の感触がまだ残っている気がする。さっきまで的当てに使っていたはずのその棒は、いつのまにか地面に転がしたままだった。取りに戻る気にもなれなかった。
 ヨルガは前を歩きながら、まだ荒い息を鎮めるように何度か肩をすくめていた。ロウンはその少し後ろを、いつもと変わらない歩幅で歩いている。三人の足音だけが、乾いた土の道に落ちていた。
「――くそ、腹立つな」ヨルガが唐突に言った。「あいつ、最後まであの目のままだったろ。認めてんだか、認めてねえんだか、はっきりしねえ」
 ドルフは何も言わなかった。何か言うべきだ、という感覚だけが、胸のあたりでもたついている。だが、それが何かは、自分でもよく分かっていなかった。
 脳裏に浮かぶのは、薪を一本ずつ拾い集めていたケインの手だった。木の皮のざらついた感触が、まるで自分の手に残っているかのような気がした。あの時、ドルフは何も言わなかった。「――おい、ヨルガ」と声を上げたのが精一杯で、その後の言葉は出てこなかった。止めるでもなく、味方するでもない、宙ぶらりんな声だった。自分でも、あれが何のための声だったのか分からない。
 ヨルガの叔父の話を、ドルフは前から何度か聞かされていた。国境の戦で死んだこと。ヨルガの母グンダが、時々その話をすると声を震わせること。あの怒りは、ヨルガひとりの中から出てきたものじゃない――そのくらいのことは、ドルフにも薄々分かっていた。だからヨルガを本気で憎むこともできない。だが、それとケインが何をされてもいいという話は、別のはずだった。
 その「別のはず」を、口に出す勇気が、今日もまた出てこなかった。
「なあ、ロウン」ヨルガが振り返った。「お前もそう思うだろ。あいつの家、なんか変だって」
 ロウンは足を止めず、視線だけをヨルガに向けた。
「別に」ロウンは言った。「本当かどうか、俺たちには分かんねえだろ。分かんねえことで騒いでも仕方ない」
「――何だよ、それ」ヨルガが顔をしかめた。「お前、いつもそうやって逃げるよな」
「逃げてねえよ」ロウンは平坦な声で返した。「面倒なだけだ。あいつのこと追いかけまわして、俺たちに何かいいことあんのか」
 ドルフは内心、少し驚いた。庇っているわけではない。それは分かる。ロウンの声には、いつもと同じ温度のない響きしかなかった。それでも、ヨルガの言葉に頷かなかったことに、ドルフはなぜか少しだけ救われたような気持ちになった。
「けどまあ」ドルフは、ようやく口を開いた。「ロウンの言う通りかもな。……本当かどうかも分かんねえのに、そこまで熱くなることもねえだろ」
 言った瞬間、自分の言葉の弱さに、ドルフ自身が一番驚いた。庇っているつもりで口にしたはずなのに、出てきたのは、ロウンの言葉をそのまま借りただけの、腰の据わらない一言だった。ケインの家がどうとか、噂がどうとか――そういう話じゃない。あいつを殴っていいのか、押していいのか、という話だったはずだ。だが、その一番大事な部分だけが、ドルフの口からは最後まで出てこなかった。
「ふん」ヨルガは鼻を鳴らした。「お前らは、いつもそうだ。はっきりしねえ」
 それだけ言うと、ヨルガは足を速め、そのまま自分の家の方へと折れていった。背中には、まだ苛立ちの残滓がこびりついているように見えた。
 残されたドルフとロウンは、しばらく並んで歩いた。ロウンは何も言わず、いつもの歩調を崩さない。ドルフは、その横顔をちらりと見た。
「――ロウン、なんであんな言い方したんだ」ドルフはようやく尋ねた。「庇ったわけじゃねえだろ、お前は」
「庇ってねえよ」ロウンは即答した。「あいつが噂だけで殴られてんの見ても、俺は別にどうも思わねえ。得もしねえけど、あそこで揉め事でかくなって大人出てきたら、それこそ面倒だろ。だから止めろって言っただけだ」
 あくまで面倒くさいから、という言い方だった。それでも、ドルフには、ロウンの中に何か別のものがあるような気がしてならなかった。何がとは、はっきり言えない。だが、少なくともロウンは、ヨルガの側にべったりついてはいない。それだけは確かだった。
「――俺は、庇いたかったよ」
 ドルフは、ふと、そう漏らした。誰に言うつもりもなく、ただ声になって出てしまった言葉だった。
 ロウンは、それに何も答えなかった。ただ、一度だけドルフの方を見て、そのまま前を向いた。何も言われない方が、ドルフにはむしろこたえた。
「――何とか言えよ、ロウン」ドルフは、少し苛立って言った。
「言うことねえよ」ロウンは肩をすくめた。「庇いたかったのに庇わなかった。それだけだろ。ほかに何言ってほしいんだよ」
 言葉に詰まった。ロウンの言う通りだった。庇いたかった、で終わる話ではない。庇わなかった、というのが、今日起きたことの全部だった。
 道が分かれるところで、ロウンは「じゃあな」とだけ言って、自分の家の方へ歩いていった。振り返ることもなかった。
 ドルフは、しばらくその場に立ち尽くしていた。拳を握って、開いて、また握った。何かにぶつけたいわけでもない。ただ、手のひらの中に、何かを掴んでおきたいような、落ち着かない感覚があった。
 村の小道を、少し遠回りして歩いた。夕暮れが近づき、家々の屋根の向こうに、薄い橙色の光が滲んでいる。倉庫の方から、まだ人の気配がした。目を向けると、木戸の脇に、ケインの姿が見えた。空になった背負い縄を巻き直しながら、こちらには気づかない様子で、黙って作業をしている。
 ドルフは足を止めた。声をかけるとしたら、今しかない。さっきのことを――何と言えばいいのか分からないが、何かひとことくらいは言えるはずだった。「悪かったな」でも、「あいつは気にすんな」でも、何でもいい。
 だが、胸のあたりで、また同じもたつきが戻ってきた。何を言っても、今さらだという気がした。庇わなかった自分が、今になって声をかけたところで、何が変わるわけでもない。今さら取り繕う言葉を、あいつが欲しがるとも思えなかった。
 結局、ドルフは声をかけなかった。踵を返し、遠回りしてきた道をそのまま戻り、倉庫とは反対の方角へ歩き出した。
 背中側から、木戸の閉まる小さな音がした。ケインが作業を終えて、どこかへ歩き去ったのだろう。振り返る気には、なれなかった。
「――くそったれ」
 誰に向けたのかも分からない悪態を、ドルフは小さく吐いた。何もしなかった自分に対してなのか、ヨルガに対してなのか、それとも、あの倉庫の前で結局動かなかった自分の足に対してなのか。分からないまま、ただその言葉だけが、夕暮れの道にぽつりと落ちて消えた。
 拳を、もう一度握った。今度は、開かなかった。
=== 15 · 帳尻の合わない夜 ===
倉庫の陰から、ロウンはケインを見ていた。
 薪を担いで運ぶ、また担いで運ぶ。それだけの動きを、ケインは飽きもせず繰り返している。他の子供が二往復する間に、ケインは三往復する。腕の太さは他の子供と大差ないのに、運ぶ量だけが妙に多い。休む素振りもなく、誰かに褒められたがっている様子もない。
 ――働くやつだな。
 ロウンの中で、まず浮かんだのはそれだけだった。それ以上のことは、考えなかった。あいつの家には、変な噂がついてまわっている。関わって面倒に巻き込まれるくらいなら、離れていた方がいい。それだけのことだった。
 村の共用倉庫の前には、この日、村中の子供が集められていた。冬支度の薪の計量日で、各家から運ばれてきた薪を、木こりの家の子供たちが手分けして運び込む。世話役の女房カヤが、忙しく声を張っていた。
「そこ、崩れないようにきっちり積んで! 去年、雪の重みで倒れて往生した家があったろ!」
 カヤの声に応じて、子供たちが積み上げた薪の山を、あちこちで直していく。年下の子供たちも駆け回り、拾った小枝を放り込んでは、また怒られている。
 ロウンは自分に割り当てられた分をとうに終えて、木陰で腕を組んでいた。もう終わった分は終わった。それ以上やる気はなかった。あとは、時間まで大人しくしていればいい。
 その油断を、崩したのは一瞬だった。
 積み上げた薪の山の一つが、根元から崩れ始めていた。誰かが下の方の薪を抜いたせいで、上に乗っていた太い丸太が斜めに傾き、そのまま滑り落ちようとしている。すぐ横にしゃがみ込んで小枝を拾っていたのは、村の幼い子供――レイフだった。まだ六つかそこらで、崩れる音にも気づかず、地面ばかり見ている。
 あ、と思ったときには、もう遅かった。ロウンの足は、その場から動かなかった。
 考えが終わるより先に、ケインが動いていた。
 薪の束を放り出し、二歩でレイフの脇に入り、肩でその小さな体を横に押し出す。丸太は、ケインの腕を掠めて地面に落ちた。乾いた重い音が響いて、砂埃が上がる。
 レイフは尻もちをついたまま、何が起きたのかも分からない顔で、ケインを見上げていた。ケインは何も言わず、擦れた腕を軽く振り、崩れた薪をまた黙って積み直し始めた。
「――大丈夫か」
 声をかけたのは、遅れて駆け寄ってきたドルフだった。ケインの腕の擦り傷を見て、一瞬だけ言葉を探すように口を開けたが、結局それだけしか出てこなかった。
「別に」
 ケインは短く答え、それきり手を止めなかった。
 少し離れたところから様子を見ていたヨルガが、鼻を鳴らした。
「――大した怪我でもねえだろ。騒ぐことか」
 誰も、それに応えなかった。ペトラとトビアスが、崩れた薪の残りを黙って寄せている。カヤが慌てて駆けてきて、レイフの体をあちこち確かめ、それからケインの腕を掴んで傷を見た。
「あんた……よくやったね。ありがとう、本当に」
 ケインは、その言葉にも短く頷くだけで、目を合わせようとはしなかった。
 ロウンは、木陰から動かずに、それを最後まで見ていた。
 なんで動けたんだ、あいつ。
 あの場に、大人はほとんどいなかった。誰かに褒められるわけでもない。レイフはケインの家族でもない。何ももらえないのに、ケインは考える間もなく動いていた。ロウンなら、まず得なのか損なのかを考える。だが、ケインが動くのを見ていて、そんな間があったようには見えなかった。
 自分に問いかけてみる。もし自分がその場にいたら、動いたか。分からなかった。少なくとも、あそこまで速くはなかった気がする。
 考えたところで、答えは出なかった。あれはただの反射だ、とロウンは自分に言い聞かせた。誰かが転びそうになったら体が勝手に動く、それだけのことだ。深い意味なんてない。
 そう決めつけたはずなのに、頭の隅で、なんだか気持ち悪いものが残った。
「――ロウン、何じっと見てんだよ」
 いつの間にか隣に来ていたドルフが、ロウンの視線を追って言った。ロウンはそちらを見ず、答えた。
「別に。働くやつだなと思っただけだ」
「はっ、それだけかよ」ドルフは笑うでもなく、苦い顔をした。「ロウン、あいつのこと、いつもそういう風にしか見てねえのか」
「ほかにどう見ろってんだ」
 ロウンはそう言い切って、それ以上何も付け加えなかった。ドルフは何か言いたそうに口を開いたが、結局肩をすくめただけで、崩れた薪の方へ戻っていった。
 その夜、家に戻ってからも、ロウンは寝台の上で目が冴えていた。
 昼間の光景が、頭の中で何度も繰り返された。丸太の落ちる音、レイフの尻もちをついた顔、ケインの短い「別に」。何度思い出しても、同じところに行き着く――あいつに近づいても、いいことなんてない。それでいいはずだった。
 なのに、目を閉じても、あの一瞬だけ体が動かなかった自分のことが、ちくちくと胸の奥に残った。うまく言えないけれど、なんだか負けたような気がした。それが、妙に落ち着かなかった。
 結局、ロウンは、いつまでも寝つけなかった。
=== 16 · 収穫祭前夜、遠い風の匂い ===
土埃を巻き上げながら、一台の荷馬車が村の入り口に姿を見せたのは、収穫祭を三日後に控えた朝だった。
 馬を引いてきた男は、日に焼けた顔に深い皺を刻み、荷台の布をめくる手つきにも疲れが滲んでいた。村の子供たちがいち早く気づいて駆け寄る。
「行商人だ! バルドのおっちゃんだ!」
 声を上げたのはカスパーだった。エミールとレイフがその後ろをついて走り、荷馬車の車輪に巻き上げられる砂埃に咳き込みながらも、はしゃぐのをやめない。
「――おお、また賑やかな連中だな」
 バルドは荷馬車の御者台からゆっくりと降り、腰を叩きながら苦笑いを浮かべた。長旅で強張った体を伸ばし、それから広場の様子を眺めて目を細める。
「今年も、祭りの支度か。……こっちは相変わらず、埃っぽい道ばかりで往生したよ」
 村の広場では、既に祭りの支度が始まっていた。ヴィムが数人の男たちと組んで、篝火を焚く櫓を組み立てている。トムとペーターが薪を担いで運び込み、積み上げていく。老いたハイモが、その組み方に一々口を出しては、若い者たちに睨まれていた。
「もっと根元を締めろ。去年みたいに、火の勢いでよろけさせる気か」
「分かってますよ、ハイモの爺さん」
 ヴィムがぼやきながらも、言われた通りに縄を締め直す。
 広場の隅では、ゲルダが数人の女たちと共に、祭りに飾る布を織り上げていた。カヤは炊き出しの鍋を睨みながら、手伝いのローザに次々と指示を飛ばしている。
「そこの薪、もう少し細くして! 火の通りが悪いと、芋が生煮えになるよ!」
「はい、カヤさん!」
 ファビアンの鍛冶場からは、祭りに使う鉄鍋や農具の修繕の音が絶えず響いていた。祭りは収穫の実りを祝うと同時に、冬支度の締めくくりでもある。誰もが手を動かし、村全体が一つの生き物のように浮き足立っていた。
 その浮ついた喧騒から少し離れた木陰で、ヨルガは一人、積み上げられた薪の山に腰かけていた。他の子供たちが走り回る中、彼だけは加わろうとせず、ケインが父と並んで斧を振るう方をじっと眺めている。
 誰かに何かを言われたわけでもないのに、腹の底がざわつく。祭りの浮かれた空気も、笑い声も、今日はどこか癇に障った。理由は自分でもうまく言葉にならない。ただ、ケインとドルフが軽口を叩き合う様を見ていると、その奥に叔父の顔がちらついて、拳を握る手に無意識に力がこもった。
「――何見てんだよ」
 声をかけてきたトビアスに、ヨルガは短く言い捨てて視線を逸らした。
「別に」
 それだけ言って、ヨルガは薪の山を蹴りつけるように立ち上がると、誰も誘わずに広場の奥へと去っていった。その背中を、ペトラが少し離れたところから黙って見送っていた。
 ケインは、その喧騒の少し外側で、父ガレンと共に篝火用の薪を割っていた。
「――お前は、そっちを頼む」
 ガレンが短く言って、割った薪を積んでいく方を指す。ケインは頷き、黙々と斧を振るった。乾いた音が規則的に響く。父の隣にいると、周りの喧騒がどこか遠くに感じられた。それは嫌な距離ではなく、ただ静かな距離だった。
「――おい、ケイン!」
 声を上げて駆け寄ってきたのはドルフだった。額に汗を浮かべ、手には薪の束を抱えている。
「ケイン、いつまでそんな地味な仕事してんだよ。祭りの飾りつけ、手が足りねえって呼ばれてんぞ」
「別に。これも仕事だ」
「相変わらずだな、ケインは……」
 ドルフは呆れたように肩をすくめたが、それ以上何も言わず、自分の抱えた薪をケインの隣に置いた。
「ついでに手伝ってやるよ。これ終わったら、飾りの方も見に行くぞ」
 その言葉に、ガレンがちらりと視線を向けたが、何も言わなかった。ドルフは気まずそうに会釈だけして、薪割りの手伝いに加わる。
 少し離れた道の先では、ロウンが荷を運びながら、こちらの様子を眺めていた。
「――どっちかにしろよ。手伝うなら手伝う、遊ぶなら遊ぶ」
「うるせえな、ロウン。お前は口ばっかり動かして手は動かさねえのか」
「口も手も動いてる。お前より働いてる自覚はある」
 二人の軽口を、ケインは黙って聞き流しながら斧を振るい続けた。ロウンの視線が、時折ケインの手元に向くのに気づいていたが、何も言わなかった。
 広場の反対側では、シェラが数人の女の子たちと共に、花飾りを編んでいた。ズザネが隣で乾いた花を手渡しながら、他愛のない話を続けている。
「シェラ、それ上手ね。あたし、いつも歪んじゃう」
「……別に、慣れただけ」
 シェラは短く答え、指先を動かし続けた。その視線が、薪割りをするケインの方へ一瞬だけ向いたが、すぐに手元へ戻る。何を思ったのか、それ以上は誰にも分からなかった。ただ、編み上げた花飾りの一つを、両手できつく握りしめていた。指の跡が茎に食い込むほどの強さだった。何か言おうとするたびに、喉の奥がきゅっと詰まって、結局は花を握る手にだけ力が逃げていく。ズザネに気づかれないよう、シェラはすぐに手元を緩め、何事もなかったように花を編み直した。
 昼を過ぎた頃、バルドは広場の隅に荷を広げ、商いを始めた。塩、布、針、鍋のつるといった日用品が並べられると、たちまち村の女たちが群がった。
「あら、この布、去年より色がいいじゃないの」
「奥さん、目が高いですね。西の方から来た染めでしてね」
 声を上げたのはリーゼだった。幼子を抱えたまま、布地を指で確かめている。その隣で、アグネスが早速値切りにかかっていた。
「バルドさん、去年よりちょいと高くないかい」
「……いやいや奥さん、それはこっちも道中で散々な目に遭ってましてね。値上がりはどこも同じですよ」
 バルドは苦笑いを浮かべながら、それでも慣れた手つきで荷を並べ替える。グンダとノーラも輪に加わり、他愛のない世間話に花を咲かせていた。コルダだけは少し離れたところで、荷を眺めるでもなく、静かに立っていた。
 夕方近く、日が傾き始めた頃、バルドはダグラーの家の前に呼ばれていた。ベルナーが縁台に腰掛け、酒の入った器を差し出している。ハイモやファビアンら年配の男たちも、それとなく寄ってきていた。
「――で、道中の話でも聞かせてもらおうか」
 ダグラーが低く言った。バルドは器を受け取り、一口呷ってから、大きく息をついた。
「いやなに、大した話じゃないんですがね」
 そう前置きしながら、バルドはいつもの調子で世間話を始めた。西の方の街道が混んでいたこと、塩の値が上がったこと、隣村で井戸が枯れかけていること。誰もが聞き流せる程度の話が続いた。
 そして、思い出したように、軽い調子でこう続けた。
「――ああ、そういえば。北の国境が、また戦場になったらしいですよ」
 その一言に、その場の空気が僅かに変わった。
「――北だと? また、山向こうの連中がか」
 ベルナーが器を縁台に叩きつけるように置き、身を乗り出して聞き返した。声は大きく、苛立ちを隠さない。
「ヴォスクの連中でしょうな。山向こうから下りてきて、また村を襲ったとか何とか。私はただ、道中でそう聞いただけでしてね。詳しいことは分かりませんが……」
「――また、か」
 ダグラーが低く呟いた。その声には、驚きよりも、ある種の諦めが滲んでいた。ハイモが顔をしかめ、ファビアンは黙って器を握りしめる。
「北も、南も、どっちも切りがねえな……」
 誰かがぼそりと漏らした声を、他の誰も否定しなかった。
 薪を運ぶ途中でその場を通りかかったケインは、大人たちの表情が僅かに曇るのを、遠目に見ていた。祭りの準備で浮き足立っていた声が、その一角だけ低く沈んでいる。何が起きたのか、詳しいことは分からない。だが、大人たちの顔に浮かんだ影の色だけは、はっきりと見て取れた。
 バルドは、それ以上深くは語らず、また器を呷って世間話に戻っていった。だが、一度沈んだ空気は、祭りの喧騒の中でも、しばらく元には戻らなかった。
 その夜、家に戻ったケインに、母ミラは鍋から炊き出しの残りを取り分けながら、いつもの調子で声をかけた。
「今日は随分働いたみたいね。ドルフが飾りつけまで手伝わせたって? ……何を考えてるのかしらねえ、あの子も」
 困ったように眉を寄せながらも、口元には小さな笑みがあった。ケインは頷くだけで、椀を受け取った。何を考えているのか、と言われるたびに感じるくすぐったさに似た居心地の悪さは、それでも嫌なものではなかった。うまく言葉を返せない自分を、母は急かさず、ただ湯気の立つ椀を手渡してくる。それだけのことが、今日一日のどんな喧騒よりも、胸の奥をわずかに緩めた。
 湯気の向こうで、ガレンは黙って薪を火にくべていた。その横顔には、昼間バルドの言葉を聞いていた者たちと同じ、ひとかけらの陰りがあった。
「――父さん」
 ケインが短く呼びかけると、ガレンは顔を上げた。だが、何を聞きたいのか自分でもうまく言葉にならず、結局それ以上は続かなかった。ガレンもまた、何かを察したように一瞬だけ目を細めたが、やはり口を開かなかった。
「……祭りは、明後日だ。飯にしよう」
 それだけを言って、ガレンは椀を差し出した。ミラが小さく息をついて、火の傍に薪をもう一本足す。三人分の影が、揺れる炎の明かりの中で静かに重なっていた。
 夜が更け、寝床に入ってからも、ケインはしばらく寝つけなかった。窓の隙間から、祭りに向けた村の灯りが、一つ、また一つと消えていくのが見えた。遠くでまだ誰かの笑い声がして、それがドルフのものだと分かるくらいには耳が慣れている。飾りつけの手伝いに駆り出された誰かが、まだ何かをふざけて言い合っているのだろう。
 その笑い声を聞きながらも、頭の隅では、昼間のベルナーの声がくすぶり続けていた。北も、南も、どっちも切りがねえ――誰かが漏らしたその一言だけが、耳の底に張りついて離れない。北の国境で何が起きているのか、彼にはまだ、何も分からなかった。分からないまま、ただその言葉だけが、暗闇の中で小さく尾を引いていた。
=== 17 · 見ているだけの目 ===
収穫祭が終わり、村が冬支度の最後の仕上げに入った頃、家の前の道に人影が立っていることに、ケインは薪を割る手を止めて気づいた。
 ヨルガだった。その後ろに、体の小さいフェリクスと、いつも黙って付き従うオスカーがいる。三人は何をするでもなく、ただケインの家の前で足を止めていた。話しかけるでもなく、笑うでもない。ヨルガの目だけが、家の戸口から積み上げられた薪、そして斧を持つケインの手元へと、ゆっくり動いていく。
「――何だよ」
 ケインが短く言うと、ヨルガはようやく口を開いた。
「別に。ただ、見てただけだ」
 それだけ言って、三人は踵を返し、来た道を戻っていった。何かをするために来たわけではない。ただ、そこに立って、見ていた。それだけのことが、これまでの小競り合いよりも、ずっと薄気味悪くケインの胸に残った。斧を握る手に、いつもより力がこもっていることに、しばらくして気づいた。
 その少し先の井戸端では、ヨルガの母グンダが洗い物の手を止めて、息子たちの後ろ姿を見ていた。何も言わず、咎める気配もなく、それどころか口元にわずかな緩みがあった。ケインと目が合うと、グンダはすぐに視線を洗濯物に戻し、それ以上は何事もなかったかのように手を動かし始めた。
 その夜、ガレンにそのことを話そうかとケインは一度思ったが、結局言葉にならなかった。父はいつも通り、黙って薪を火にくべているだけだった。話したところで何が変わるわけでもない気がした。うまく言えないけれど、そう感じるだけの何かが、胸の奥に前からずっとあった。
 翌日、木こり仕事に使う手斧の柄に、深い切り傷が入っていることにケインは気づいた。丁寧に研いだばかりの刃には触れられていない。柄だけが、まるで誰かが何度も刃物を試し当てたように、幾筋も削られていた。
「――父さん。これ」
 ガレンは柄を一度確かめ、無言でそれを見つめた。長い沈黙のあとに、ようやく口を開く。
「……新しいのを、探そう」
 それ以上の言葉はなかった。誰がやったのか、ガレンは問わなかった。ケインも答えを持っていなかった。ただ、心当たりがひとつだけあった。
 その晩、鍋を洗うミラの手が、いつもより長く止まっていた。振り返らないまま、ケインに聞こえるかどうかの声で「気をつけてね」とだけ言い、それ以上は続けなかった。何に気をつければいいのか、母自身もはっきりとは言えないようだった。
 ケインは何も答えなかった。答える言葉を持っていなかったからだ。それでも、鍋を洗う母の背中を見ながら、その一言だけは確かに受け取ったと思った。何が起きているのかを、母はきっと半分も分かっていない。それでも案じてくれていることだけは、分かった。ケインは小さく頷き、それ以上何も言わずに寝床へ入った。
 薪の代金を届けにダグラーの家へ向かう道で、ケインはドルフに出会った。
「――おい、ケイン。何だよその顔」
「別に」
「別にって言う時、大体何かあるだろ、お前は」
 ドルフはそう言ってから、慌てて言い直した。
「――いや、ケインは、だよ」
 ケインは短く柄の傷のことを話した。ドルフの表情がわずかに固まる。
「……それ、ヨルガか」
「分からない。誰も見てない」
「分からないけど、大体分かるだろ、そんなの」
 ドルフは苛立ったように地面の石を蹴った。石は転がって、道端の草むらに消えた。
「くそ、あいつ、まだ根に持ってんのか。祭りの後、大人しかったから、もう終わったと思ってたのに」
「終わってない、ってことだ」
 ケインが言うと、ドルフは何か言い返そうとしたが、結局それ以上続けられず、口の中で悪態だけを漏らした。それから、少し声を落として続けた。
「――俺だって、何か言ってやりたいけどよ……」
 言葉はそこで止まった。ドルフは自分の言った台詞に急に決まりが悪くなったのか、乱暴に鼻を擦って話を打ち切った。
「まあ、いい。……行くとこあるんだろ、ケイン。俺も行くとこあるし……また、な」
 それだけ言って、ドルフは足早に去っていった。何かを言いたそうな背中だったが、結局、何も言わずに去った。ケインはその背を見送りながら、以前と同じ光景だと思った。ドルフはいつも、何か言いたそうにして、去っていく。
 数日のうちに、嫌がらせは形を変えて続いた。
 ある朝、水を汲みに井戸端へ出たケインは、置いていた水桶が横に転がっているのに気づいた。持ち上げると、いつもより重い。覗き込むと、底に泥が厚く詰め込まれていた。誰かが夜のうちに汲みたての水を捨て、代わりに泥を詰めたのだ。洗い流すのに、いつもの倍近い水と時間がかかった。泥を洗いながら、これで何度目になるかとケインは数えかけたが、途中でやめた。数えたところで、何も変わらない。顔を上げて周りを見回しても、人影はなかった。ただ、井戸端の向こうの生垣の陰から、誰かに見られているような気配だけが、しばらく残っていた。
 編みかけの縄が、結び目のところだけ切られていたのも、同じ頃だった。それも、これがヨルガの仕業だという証拠は何一つなかった。だが、遠目にヨルガとフェリクス、オスカーの三人がケインの家の方を眺めては、何か言い合って笑っている場面を、村の子供たちの何人かが見ていた。
 その一人が、ペトラだった。広場の隅で薪運びをするケインの横を通りかかったとき、ペトラは小さく足を止め、それから何も言わずに視線を逸らして行ってしまった。トビアスも同じように、遠くから見ているだけで、それ以上は近づいてこなかった。
 ロウンは、その様子を離れたところから眺めていた。
「――嫌なやり方だな。あいつのは」
 ケインの隣に来て、そう言ったのはある日の午後だった。荷を担いだまま、ロウンは短く続けた。
「証拠、残さねえだろ、ああいうの。でも誰がやったか、みんな薄々分かってる。ずっと続くやつだ、こういうのは」
「それを、ヨルガに言うのか」
「言っても聞かねえよ、あいつ」
 それだけ言って、ロウンは荷を担ぎ直し、それ以上は何も言わずに歩いていった。庇う言葉でもなく、慰める言葉でもない。ただ、思ったことだけを置いていくような口調だった。ケインはその背中を見ながら、以前の薪計量日にロウンがふと見せた妙な間のことを、ぼんやりと思い出していた。あの時と同じ、何かを測りかねている目だった。
 花飾りの片付けを手伝っていたシェラは、広場の隅でヨルガたちが何かを言い合っているのを、少し離れた場所から見ていた。ヨルガの口の動きから、ケインの名だけが読み取れた。それ以上は聞こえなかった。
 声をかければいい。そう思うのに、体が動かなかった。声をかけたら、次は自分が何か言われる番になる気がした。理由はうまく言えないけれど、そんな怖さが、いつも足を止めさせた。シェラは編み残しの糸を、気づかないうちに強く握っていた。ふと指先の感触に気づいて力を抜いたとき、これが初めてではないと思い出した。花飾りを編んでいた祭りの夜も、同じように手だけが力んでいた。言えなかった言葉の代わりに、いつも手だけが力む。それが自分の癖なのだと、シェラは今更のように自覚した。
 その帰り道、水桶を運ぶケインとシェラは、細い道で行き違った。すれ違う一瞬、シェラは何か言おうとして口を開いたが、結局出てきたのは違う言葉だった。
「……重いなら、片方持つ」
「別に、これくらい」
 ケインが素っ気なく答えると、シェラはそれ以上何も言わず、視線を落として先に歩き出した。言いたかったことは、その一言ではなかった。だが、それ以上を言葉にする勇気は、今日も出てこなかった。何も言わずに、シェラは片付けの手を再び動かし始めた自分を、少し離れたところで思い出しながら歩いた。
 嫌がらせは、日を追うごとに露骨になっていった。ある朝、水を汲みに出たケインは、家の戸口の泥に、乱雑な文字で何か書かれた跡を見つけた。文字は崩れていて、読み取れる部分は少なかったが、村の子供が書いたものだということだけは分かった。ミラが先にそれを見つけ、何も言わずに足で消したが、その日の朝食は、いつもより静かだった。ガレンは何も言わず飯を口に運び続けたが、椀を置く手つきに、いつもより硬さがあった。
 村の広場を通りかかったとき、ダグラーの側近格であるベルナーが、そうした噂を耳にしたのか、ちらりとケインの一家の方を一瞥して何かを呟いていたが、それ以上関わろうとはしなかった。子供同士のいざこざに、大人が正面から手を出すことは、この村ではほとんどなかった。
 そして、冬の入り口を感じさせる冷たい風が吹いた日の午後、ケインはヨルガから声をかけられた。フェリクスとオスカーを連れて、広場の外れに立っていた。
「――おい、ケイン」
 その声には、これまでのような小競り合いの気配がなかった。もっと落ち着いた、値踏みするような響きがあった。
「村外れの森、来いよ。お前に、見せたいもんがある」
「何を」
「行けば分かる」
 それだけ言って、ヨルガはフェリクスとオスカーを引き連れて先に歩き出した。ケインは、いつも肩にかけている道具袋にも、斧にも、手をかけなかった。何を持って行けばいいのか、ヨルガは一言も言わなかったからだ。何も持たされないまま、ただ「来い」とだけ言われて、ケインは冷たい風の中、三人の背を追って歩き出した。
 村外れに近づくにつれ、家々の音は次第に遠ざかり、代わりに乾いた枝葉の擦れる音だけが耳に届くようになった。前を歩くヨルガの背中は、これまでのどの時よりも落ち着いていて、それがかえって、何か引き返せない一線に近づいているような感触をケインに与えた。
 何が待っているのかは、まだ分からなかった。
=== 18 · 冷たい水の底 ===
森を抜けた先に、川があった。
 夏なら子供たちが飛び込んで遊ぶ浅瀬だが、冬支度の始まったこの時期の水は、見ているだけで肌が縮むほど冷たそうな色をしていた。岸の石は霜で白く縁取られ、川音だけが妙に大きく聞こえた。家々の物音はとうに遠く、乾いた枝葉の擦れる音と、水の流れる音だけがこの場所を満たしていた。
 浅瀬とはいえ、岸に近い一角だけは違った。秋の長雨で川底が抉れ、大人の腰ほどの深さになる淀みができている場所だ。夏場に水遊びをする子供たちも、そこだけは大人から「近寄るな」と言われてきた。ケインもその話を、村の誰かから一度だけ聞いた覚えがあった。
 ヨルガはその川縁で足を止めると、ようやく振り返った。フェリクスとオスカーは、ヨルガの左右にそれぞれ立ち位置を取った。何度も打ち合わせでもしたような、無駄のない動きだった。
「――着いたぞ」
「見せたいもんって、これか」
 ケインが川を見やって言うと、ヨルガの口の端がわずかに歪んだ。何かを面白がるような、それでいて自分でもうまく説明できない苛立ちを抱えたような、ちぐはぐな表情だった。
「いや」
 その一言と同時に、フェリクスがケインの背後に回り込んでいた。オスカーは何も言わず、正面から距離を詰めてくる。ケインが振り向くより早く、背中を強く押された。
 よろめいた体を、今度はヨルガが胸を突いて押し返す。
「見せたいのはよ」ヨルガの声が、これまでよりも低く、太くなっていた。「――お前がどこまで黙ってられるか、だ」
 拳が飛んできた。避けきれずに頬に入り、口の中に鉄の味が広がる。ケインは体勢を崩しながらも、足だけは踏ん張った。殴り返したい。でも、三人相手じゃどうにもならない。大人に見つかったら余計に面倒なことになる――そんな考えが頭の隅をよぎって、体が固まった。
「ヨルガ、ヨルガ、こいつ全然効いてねえ顔してるぞ」フェリクスが機嫌を伺うように名前を二度繰り返してはやし立て、ケインの脇腹に蹴りを入れた。仲間を痛めつけることへの迷いよりも、ヨルガの機嫌を取ることの方が先に立つ、上ずった声と蹴り方だった。オスカーは相変わらず何も言わず、ただ退路を塞ぐように立っている。
「うちの叔父さんは」ヨルガが息を荒げながら言った。「お前の親父のせいで、帰ってこなかったんだぞ。分かるか。分かるわけねえよな、お前には」
「……知らない」
 ケインは短く言った。それだけで、また拳が飛んできた。今度は腹だった。息が詰まり、膝が折れる。
「知らないじゃねえよ! お前の親父が、うちの叔父さんを見捨てたんだ!」
 声には、怒りだけでなく、何かもっと湿ったものが混じっていた。ケインはそれを聞き取りながら、地面についた手に力を込め、なんとか体を起こそうとした。
 殴られること自体には、不思議と恐怖はなかった。痛みはある。悔しさもある。それでも、涙も出なければ、声を上げて助けを呼ぶ気にもならない自分がいた。頭の奥の方で、何かひやりとした記憶がちらついた気がした。どこで見た景色なのか、自分でもよく分からない。ただ、こういう時は黙って耐えるしかない――そんな感じが、ずっと前から体に染みついているようだった。
 その様子を、少し離れた木立の陰から見ている二人がいた。
「――くそ」
 ドルフが低く唸る。薪拾いの帰り、遠くにヨルガたちとケインが森へ向かうのを見て、嫌な予感がして後を追ってきたのだった。隣にいたロウンは、荷を担いだまま、黙って川縁の様子を見つめている。
「おい、ロウン。あれ、まずいだろ」
「まずいな」
 ロウンは表情を変えずに答えた。だが、答えるまでに一拍分、いつもより長い間があった。
「三対一だぞ。本気で殴ってる」
「じゃあ」
「でも、入ったら余計まずいことになる。ヨルガの母ちゃん、うるさいし。大人まで出てきたら、こっちが悪者にされる」
 淡々とした声だった。だが、荷を担ぐ肩紐を握る指先には、いつの間にか白くなるほど力がこもっていた。目はケインたちから一度も離れていない。自分で言った言葉を、なんだか他人が喋っているみたいに聞いている――そんな変な感じが、ロウン自身の中にもあった。頭では動くなと言っているのに、足の裏だけが、川縁に向かってじりじりと動きたがっていた。
 ドルフは拳を握った。もう一方の手で木の幹を強く掴む。足が、一歩、前に出かける。
「――でも、あれは」
 言葉の途中で、ドルフはまた止まった。三人相手だ。自分一人が飛び出したところで、どうにかなる保証はない。むしろもっとひどいことになるかもしれない。そう思った瞬間、体が動かなくなった。前に出かけていた足が、木の根元に戻る。
「くそ、くそ……」
 悪態だけが、口からこぼれ続けた。ロウンは何も言わず、ただ川縁の光景を見つめていた。担いだ荷が肩からずり落ちかけているのに、直そうともしなかった。その顔に浮かんでいるのは、いつもの平たい顔ではなく、自分でもどうしたらいいか分からない者だけが浮かべる、落ち着かない色だった。
 同じ頃、村の広場では、シェラが片付けかけの花飾りの残りを籠に詰めていた。
 昼過ぎ、ヨルガがフェリクス、オスカーと連れ立って歩いていくのを見た時、その口の動きから「森」「ケイン」という言葉だけが読み取れた。それ以上のことは分からなかった。分からなかったが、いつもの小競り合いとは違う何かが、あの後ろ姿にはあった。
 声をかければよかった。籠を抱えたまま、シェラは何度もそう思った。でも、体がすくんだ。もし庇ったりしたら、今度は自分が何か言われるかもしれない。うまく言えないけど、そういう怖さが、いつも足を止めさせた。
 それでも、籠を抱えた手が震えていた。編み残しの糸を握るときと同じ強さで、指先が籠の縁に食い込んでいる。今度も、また同じだ。何も言わず、何もしないまま、後で悔やむだけだ――そう思った瞬間、シェラは自分でも気づかないうちに、森へ続く道へと足を向けていた。
 いつもの恐怖は、消えていなかった。それでも、体の方が先に動いていた。
 川縁では、ケインがようやく立ち上がろうとしたところを、ヨルガがまた前に出た。
「まだ立つのかよ」
 その声には、苛立ちと同じくらいの戸惑いが混じっていた。何発殴っても、ケインが泣きも喚きもしないことが、ヨルガにはかえって腹立たしいらしかった。
「――何か言えよ。何とか言ってみろ」
 ケインは答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。ただ、体を起こしかけたその瞬間、両肩をフェリクスとオスカーに掴まれ、そのままヨルガに突き飛ばされた。
 足元が滑る。霜で白くなった石を踏み外し、体が大きく傾いだ。踏み外した先は、さっき目にしたばかりの、あの淀みだった。
「――!」
 声にならない声を上げる暇もなく、ケインの体は川縁の岸から滑り落ち、冷たい水の中に倒れ込んだ。
 思っていたよりも水は深く、足がすぐには底に届かなかった。息が詰まり、視界が水しぶきで歪む。手をついた川底の石は氷のようで、指先の感覚がすぐに失われていく。浅瀬のはずが、ここだけは違う――頭のどこかでそう理解するより先に、体が凍えていった。
 岸の上で、ヨルガもフェリクスもオスカーも、何も言わず立ち尽くしていた。やりすぎた、という空気だけが三人の間に漂っていたが、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
「――お、おい、ヨルガ」
 フェリクスの声が、初めて震えた。さっきまでの、機嫌を取るような軽さは消えていた。だが、それ以上は誰も動かなかった。オスカーだけは、「……まずい」と誰にともなく短く漏らしたきり、何も言わないまま一歩、また一歩と後ずさっていた。ふだん声を上げないぶん、その一言だけが妙に重く川縁に落ちた。
 木立の陰では、ドルフがまた足を踏み出しかけて、また止まっていた。ロウンは荷を下ろしかけた手を、そのまま宙で止めていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、この瞬間だけは何も考えられなかった。誰も、動かなかった。
 冷たい水の中で、ケインはもがきながら顔を上げた。滲む視界の向こう、川縁に立つ三つの影と、その奥の木立の陰に、誰も助けに来ない。分かっていたことだった。それでも、体の芯から凍えていくような感覚だけが、やけにはっきりと胸に残った。
 ――と、そのとき。
 誰も動かなかった川縁の景色の中で、ただ一人だけ、息を切らしながら足を踏み出す影があった。